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そろそろ行動のときですか?
その花ははじめ、淡かった。
けれど次第に妖艶さを増し、散る直前がもっとも色濃くなる。そこに夕映えもくわわれば、浮世をおおいつくしてしまうほどの幻想が訪れる。その現象の名を、原因を、球根を植え替えられる以前の逢坂りこはまだ知らなかった。
それは鉢と球根の比率が合わずにやきもきしていた頃
――具体的にはグレゴリオ暦二〇一二年のクリスマス・イヴ――
少女の逢坂りこは小さなライブハウスで、煙にまみれ、多彩な照明に射されながら、踊っていた。崇拝や信仰を可視化した「アイドル」という偶像の役割を担って。「サイリューム」という棒状の化学発光の照明具を前に後ろにとふり回す男たちを前にして。『聖夜のマジカル・りこぴん・パーティ』と銘打って。
逢坂りこは「りこぴん」というあだ名で親しまれ、プロフィールの好きな食べ物欄に「トマト」と表記させられていた。しかしその頃、言葉や名前の多くは商業目的に濫用され、本来の力が失われた形骸にすぎなかった。逢坂りこは特別に「トマトが好き」なわけでもなかったのだ。
「もしもきみが、許してってなげく、ならばあたしは、きみの呪いに、魔法をかけるわ」
などと、アニメーションで流行りの魔女のコスチュームを身に付けて。歌詞の意味もたいして理解していなかったし、発声の訓練を地道に重ねてもいなかったけれど。少女はそれでも、懸命に歌っていた。
「ありがとうの魔法」
彼女は当時にしてはめずらしく、グループを組んではいなかった。当時、世間では「アイドル戦国時代」などとのたまう連中もおり、幾千の少年少女たちが使役され、表舞台に駆り出されていた。特に首都・東京の秋葉原を拠点とした「AKB48」なるグループにいたっては、その派生グループが全国的に配置され、偶像崇拝の栄華を誇っていた。個々の舞踊や歌唱の拙さをごまかすためか、あるいは競争原理を根付かせるためか、大人数で徒党を組ませる方法が主流であった。にもかかわらず、こと逢坂りこにかぎって言えば、単独で舞台上に立っていたのである。
「愛してるの魔法」
彼女の人気はそれほどでもなかった。ほぼ無名といってもよいほどだった。
「百遍も、千遍も、満遍なく、魔法をかけるわ。さあ、いくよ~」
まるでお百度参りだ、と彼女は情熱的に歌いながら、冷静に思っていた。そんな本音をおくびにも出さず、いったい、それらの魔法をあと何回くらいかければ、男たちの嘆きは、ケモノたちの呪いは昇華するのだろうか、と彼女のココロはその頃すでに、辟易していた。
「ありがとう! 愛してる! ありがとう! 愛してる!」
それでもしかし、
「花は虫に向かって咲くんだ」。
――かつて、田舎のひいじいさんが放った言葉だった。ひいじいさんは、信州の伊那谷というところに一人ぼっちで住んでいた。そこは、天竜川に沿って南北に伸び、雄大な山脈に東西を挟まれた自然豊かな盆地だった。
はじめて面会したのは、逢坂りこが六歳で、ひいじいさんが九十三歳のときだった。
そのときもまた少女は両親に車に乗せられて、どうしてそんな辺鄙な場所に向かうのか、なぜ隠居中のひいじいさんを訪ねるのか、いっさいの事情は知らされなかった。知りたいという欲求もまだ少女には芽生えてはいなかったけれど。
「うわぁ、きらきら!」
温泉に一泊した次の早朝だった。どういう経緯だったか、ひいじいさんと二人で、逢坂りこは谷の散策に出かけたのだった。彼女はその途中、東の山の向こうに隠れている太陽が、西の山々の頭だけを照らしている光景を見て、感嘆した。
「谷はただ、待っているんだ。花のように、ただ一ヶ所に、ずっとこうして、輝くときを待っているんだ」
それから、どこに向かって、戻ったのか。ひいじいさんと会ったのはそれ一度きりだったから、いまだに生きているのかさえも分からないままだった。何の報せ(しらせ)もない。けれど、実際のところ――
三回目の「愛してる!」でカラーボールを客席から顔面にぶつけられ、脳震とうを起こして救急車で運ばれるまで、逢坂りこの記憶の中から「伊那谷のひいじいさん」の存在は、すっかり失われていたのである。視神経乳頭にある盲点のように。
あのとき見た草花のきらめきも、食べたおやきのぬくもりも、浸かった温泉のやわらかさも。ひいじいさんの名前も、面影も、
「ほかのことは何を忘れたっていい。だけどただ一つ、忘れないでいてほしい――」
その約束も。
アイドル歌手を目指しはじめたのはその二年後くらいからで、逢坂りこは早熟な精神の持ち主だった。本当のところどうかは不明だが、はた(大人たち)から見ればたしかに、「よくできた子」だったのだ。小学生ですでに「どうふるまえば人が喜ぶか」を認知していたし、「どうふるまうことを人は求めているか」を臨機応変に把握することができた。
周囲の大人たちはみな、従属する者、身分の低い者、権力の弱い者に対し、彼らの思い通りの反応を望んだ。とくに逢坂りこの父と母は、彼女が物心ついてからというもの、娘が「思いのほか」の言動をすることを嫌がった。
母はしばしば「いらいら」していた。だから彼女は一輪車に乗るような感覚で、母親の機嫌に対応する癖がついた。
父はたびたび「いい子にしてるんだよ」と微笑んだ。だから彼女は平均台を歩くような心持ちで、父親の期待に応える習慣がついた。
逢坂りこは、人の心を読む能力に長けていた。天性のものだった。「共感覚」といった超人的な能力ではなくて、国語での「作者の意図」を的確につかめるといった程度の才能にすぎなかったけれど。それはそれで、「よくできた子」の評価を獲得して生存するのに充分役立っていた。
大人たちを喜ばせるのは基本的に、好きだった。放課後に友達と雲梯にぶら下がっているのよりも、ずっと。
自らの言動で彼らが微笑み、安らぎが広がるのを見るのは、純粋に楽しいことだった。その「よさ」に、彼女は何の疑いも抱かなかったし、たとえ「もっと素直に子供らしくしたらいい」と言われたところで、彼女にとっては「えへへ、ありがとうございます」と愛嬌をふりまくのが「素直な自分らしい」在り方だと思っていた。
そして中学二年生のとき、雑誌で見かけた「次世代アイドルオーディション」の記事をたよりに、黒服の男たちの面前へと姿を現したのだった。満を持して。彼女にとってみれば十四歳というその年齢は、むしろ遅すぎるくらいだった。猫はたった一年で成猫になり交尾や妊娠ができるようになるのに。私はああゆうこともそうゆうことも、大人たちと同じように知っているのに。
「この衣装着て、ステージに上がる自信あるかな?」
「はい、もちろん」
胸のふくらみを少し増して、スカートにもふくらみを持たせて、くるりと回れば、下着が見えそうで見えない、絶妙な色気を演出するための衣装だった。それが自身の愛らしさにプラスに働くものだと、逢坂りこは一目見て感じ取った。
「ファンの方々が喜んでくれるのなら、私は何だってしてみせます。もちろん、期待を裏切らない程度に、ですけどね」
黒服の男たちはその「満点の言葉」に舌なめずりをした。そして逢坂りこを単独で売り出すことを英断したのだった。「費用対効果」を鑑みて。
父と母は予想通り、「もちろん、あなたのやりたいことなら、全力で応援する」と言って、その浮かれ様は、事務所との契約の日に赤飯を炊いてお祝いしたほどだった。
そうしてとんとん拍子で偶像となった逢坂りこはお百度参りのような三年間にわたるライブを経て、イエス・キリストが生まれてから二〇一二年経ったとされる(そう信じられている)聖なる夜に、救急車中の寝台で、いくつかの混濁した夢を見た。
――なんだかんだ言っても結局、あんたは大人たちを馬鹿にしていたのよ。
――可哀想なファンの方々の欲望とコンプレックスで汚れた心を、愛の魔法で癒して差し上げるのはさぞ、愉悦だったろうに。
――意外と、人気、出なかったね。残念。
「ああ、うるさい」
『聖夜のマジカル・りこぴん・パーティ』の会場の騒音は、まだ耳の奥で鳴り止んでいなかった。よく分からない歌詞に、よく分からない観客の声援に。あんなに聞き分けのよかった女の子が、いったいどうして、いつの間に――
それでもだから、
「花は虫に向かって咲かなければならないんだ」。
私は、花なのだ。
可憐でいとしい、誰もが見惚れる、私の蜜を求めて民衆が群がる、一輪の真っ赤なバラ――
それこそが、逢坂りこという少女をアイドルへと駆り立てた、もっとも根本的な「思い込み」だった。「信念」であった。
「思い」というものは、たとえその本質がダリアだろうがリコリスだろうがフリージアだろうが、子供たちが自らその植え時を選択できるものではない。たとえ、どんなに特殊な才能に恵まれようとも。どんなに沢山の本を読み、海のような深い愛情を注がれようとも。子供たちに、自分の「思い」を選択する権限は与えられていなかった。それは危険なカラーボールを安全な雨粒には変えられないように、宿命的に決定的なものだった。
「うるさい。だまれ」
逢坂りこの核心が、彼女の混濁した意識の中で、そう命令した。
「私は、何だってしてみせるんだ。ファンのみんなが喜ぶなら、何だって」
少女は頭部を「コンピュータ断層撮影」されながら、考えた。すでに回復した清明な意識の中で、知る限りの淫乱で過激な描写を次から次へと並べて、一つの定型の物語を組み立てた。思っていたよりもその浮輪みたいな機械の中は静かで、何だか虚しかった。けれどその妄想が白服の大人たちに読み取られるのは裸を見られるのよりも、性器をまさぐられるのよりも、恥ずかしいことだった。
「大丈夫ですよ。特に異常は見当たりませんでした」
逢坂りこはそれを聞いて、ほっとした。X線によって、「無邪気な少女」の中で渦巻いた「邪悪な映像」が覗かれてはいなかったことに。
「ですが、一つ聴いておかなければならないことが」
「はい、何でしょう?」
「脳震盪を起こしたとき、意識の完全になくなったという時間が、少しでもありましたか」
「ええと、それは……」
完全なる消失があったのか、なかったのか、正直なところ、逢坂りこには分からなかったけれど。
「たぶん、なかったと思います」
たぶん、あった。けれど直感的に、そう答えるのが無難、だという気がした。
「そうですか。それはよかった。それでは念のため一泊入院して、その後一週間くらい、お休みをとって安静にしておいてください」
「え……どうして一週間も?」
年末年始には、またそれ相応の盛大なライブイベントがあったのだ。歌って踊って魔法をかけるアイドルが一週間も安静にしていられるはずがなかった。
どうして?
「脳震盪にはガイドラインがありましてね、完全に回復していない間にもう一度強い力がくわわると、脳に水分が溜まって、最悪の場合、死んでしまうケースもあるんです。それで、当院では一週間、患者さんにどんな競技も中止にしてもらっています」
「そんな……」
「もしも意識消失があったという重症の場合、もう少し精密に検査をし、もう少し長く入院してもらうことになっていたかもしれませんよ?」
脅しか。眼前の白服の大人は見抜いていた。
「一週間も大人しく安静にしていられるはずがない」という逢坂りこの思い込みを。そしてその思い込みの先に、どんな壁があり、どんな落とし穴があり、最終的にどこに至るか、という道筋さえも。盲腸の手術の手順を思い浮かべるよりもたやすく。
逢坂りこの「信念」のゴールは見抜かれていた。実のところ、彼女自身にさえも。
「なんか……ろくでもないですね」
――私の人生って。
「はい?」
「いえ、何でも。分かりました。きちんとお休みしてみます。一週間」
「はい。是非そうしてください。あなたはまだお若いのだから、これから何度でも生まれ変われるはずですよ」
そんなことを恥ずかしげもなく赤の他人に言う医師がいったい、この浮世にいるのだろうか。
「ふふっ、そうですね。ありがとうございます」
いたのだ。実際に――
「お大事に」
こうして彼女の思念は一旦、雲散霧消して、また新たな「信念のタネ」を探し求める必要が生じてきた。今度は、自らの頭よりも、自らの胸で、自らの子宮で、一から選び直すべきであった。
いや、〇から。
十七歳にしてその「選択の自由」と遭遇した逢坂りこは、ほんの少し特別に恵まれていたのかもしれないし、あるいはそれはもうすでに、幾ばくかの転生を経てきた結果なのかもしれなかった。
世界はそこはかとなく、誤魔化しがきかないような気がした。
社会はまだ、黒服の男たちが支配していて、まだまだその進展は数多の「集団的自衛」意識の中で、とどまることのないように思われた。男たちの多くが外へ外へとその妄信を追い求め、女たちの多くがその濁流に呑み込まれていた時代であった。和紙のあちらこちらには墨汁が野放図に撒き散らされ、霧霞はたえまなく群集をとらえ、駆り立てていた――
かのように思う人々も多かったが実際、西暦二〇一二年から二〇一三年にかけて極大期を迎えるはずだった黒点は、二〇一一年のそれよりも少なく、それまでの観測記録と照らし合わせても異常な事態だったという。黒点の活動は人々の意に反して停滞を始めたのかもしれなかった。あるいは――
太陽も地球も、政治も経済も、大衆の意に沿うようにはつくられていないのかもしれなかった。
進展か停滞か――
いずれにしても、結論や決着がつくにはまだ時間がかかりそうだったし、その前に北風が挑むという山場があるのかもしれなかった。
むろん、そんな天体の事情を知る由もない十七歳の逢坂りこの平成二十五年・元日は、大晦日のカウントダウン・ライブを中止にしてしまった余波か、ただただ茫然と過ぎていった。
人気がそれほどでもなかったという事実が、功を奏したようだった。芸能事務所も個人経営のマンションの一室みたいなところにあったし、三年の活動を経て、逢坂りこへの期待は随分と薄れていた。それだから、「違約金、三十万円ね」という冷淡な罰則を受けただけで済んだ。
「ごめんね、お母さん」
「いいのよ。あんな事故があったのだから、当然のこと。それに、あなたが三年間のアイドル活動で稼いだお金――ほら」
棚の三段目から取り出した預金通帳を、母は開いて見せた。
およそ九十万円――
「ちゃんと貯めておいたから」
年間約三十万円――
結構いろいろ、ライブとか握手会とかネットラジオとか雑誌モデルとかいろいろ、やったはずなのに。それも独りで。たった、それっぽっち。それっぽっちのアイドル活動。それっぽっちの思春期の、価値――
「もう、やめる」
「それって、つまり……?」
「引退……したい」
「……うん」
母は娘の涙を見て、肯定した。
違約金の三十万円を差し引いて、逢坂りこの手元に残ったのは、約六十万円だった。もう三で割るのはやめておいた。それは南米にツアー旅行に行けるほどの金額だったし、それはそれで「社会見学の代金」として考えれば充分儲けものだったと、父も母も納得した。
両親の心を操縦するのは十七歳の逢坂りこにとって、カマキリを捕まえるほどにたやすいものだった。七歳以降、彼女がカマキリを目にしたのはただの一度もなかったけれど。
「それじゃあ、新年の抱負――」
テレビの通信販売で購入したおせち料理をつまみながら、母が提案した。
「お父さんから、どうぞ」
「うん? そうだな……部長、いやせめて副部長には昇進したいな」
当時、四十四歳の父のもっとも重大な気がかりは「昇進年齢の平均値」だった。すでに「最短」はかなわなかったが、せめて「標準」には収まりたかったのだろう。
「お父さんなら、いけるよ。部長さんにでも」
父の地位が上がることは、彼女の保護の強化を含蓄していたけれど。逢坂りこは世辞でも何でもなく、無自覚に父の心を持ち上げた。
「そうか? じゃあ、りこの分まで頑張らなくちゃだな」と、父は得意の笑みを見せた。
「いいわね、あなたは。分かりやすい目標があって」
専業主婦の母は、自分の立場に少なからず不満を持っていた。
「お母さんも何か、習い事でもしたら?」
その不満を逸らすべく、逢坂りこも提案してみた。彼女が緩衝材となることで、この核家族を安定させてきたのだった。
「そうねえ」
なのに、まさかその何気ない一言が、小さな革命の引き金になろうとは……
「ヨガでも習いに行こうかしら。最近けっこう流行ってるらしいし、アンチエイジングの一環として」
「へえ面白そう、私もやってみたい」
「りこはまだアンチエイジングなんて年でもないでしょう?」
と、母は茶化したが、
「いいじゃないか。身体を動かす習慣は若いうちから一つでもあったほうがいい」
それが父の信念の一つだった。妻や娘が、いつまでも若々しく美しい肉体を維持してくれることは、父にとっても喜ばしいことであった。
「そうねえ」
アイドル活動に勤しんでいたことを、逢坂りこは内密にしていたが、それでもその噂は学級の垣根を越えて流布されていたし、もはや新たにクラブ活動に中途参加するのは、その気位の高さからいっても、とても気後れだった。だからといって、彼女の高校二年生の三学期を「空っぽの頭」のまま過ごすのは、どうにもいたたまれなかった。
じきに「受験生」へと変わる冬――
学校生活において恋人どころか友達すらも大してつくってこなかった逢坂りこにとって、多彩な照明と熱狂する観客の幻影を薄めるだけの「ゆるやかなひと時」が必須だったのかもしれない。
「三ヶ月だけでいいから。お願い、お母さん」
「……うん、分かったわ。一緒に習おう」
構えることを知らぬ母親は、娘の食指の動きを払いのけることができなかった。ましてや、その「三ヶ月」の先に娘がたどり着く景色を見通すことなど、複眼でもない黒点に可能なはずもなかった。
「ヨガの基本は、呼吸法。一にも二にも、呼吸が大事です。はい、鼻から吐いてーー、鼻から吸ってーー、吐いてーー……」
本格的なヨガ・スタジオやヨガ・スクールを選ぶのはなんとなく気が退けて、カルチャーセンターの講座を受講することにしたのだった。「ホットヨガ」「ピラティス」「リンパ体操」などと、さまざまな「健康」講座がひしめく中で、逢坂りことその母は「リフレッシュヨガ」を選んだ。
決め手は、「力を抜きゆったりとした動きで、頑張らずに無理なくおこないます。どなたでもいつからでも始められます」という掲示だった。週に一度、火曜日の午後七時から、寒さでこわばったからだをほぐし、頬を紅潮させる熱を発散させて、気分を一新する。
精神的にではなく、具体的な行動を通して。
初心者の逢坂母娘を迎え入れた当日、シバナンダヨガ国際公認講師の米村守先生はまず、「正しい呼吸法」について再三の説明をした。
「肺の一部だけでなく全部を使うイメージで、お腹の底まで酸素が隅々と行き渡るように、はいもう一度ー、鼻から吸ってーー、吐いてーー……」
逢坂りこはそれまで、自分がどれだけ浅い息をしていたかに否応なく気づかされ、愕然とした。九〇分のライブのステージ上であれだけ息が上がるのも当然だった、と。
しかしあぐらをかいて坐り、右手を胸に、左手を下腹部に当てて呼吸に意識を集中していたので、その愕たる想いを示すことはできなかった。あたかも平静に、何も気づかなかったかのように、次の「太陽礼拝」のポーズに移行していた。
「それでは、太陽への感謝の気持ちを込めて、ウォーミングアップをおこなっていきます。肩の力を抜いて、背筋をまっすぐ、胸の前で合掌……」
両手を天井に向かって上げ、上半身を曲げて両手を床につけ、目線を前方へ、片足ずつ足を後ろへ伸ばして腕立て伏せの姿勢に、腕を曲げて顎と胸を床につけ、うつ伏せの体勢から上半身を持ち上げて反らし、ぐっと腰を持ち上げ身体をくの字に、そのまま足を前に出して縮んで倒れた上半身を、うーんと天井へ向かって伸ばしたら、ふたたび合掌……
と、逢坂母娘といくらかの婦人たちは、一つ一つの動作を丁寧に、ゆっくりとおこなっていった。
逢坂りこのからだの中で失われていた何かがゆっくりと回帰してきたかのように。いや、「失われていた」のではなく、単に「眠っていた」だけの何かがふたたび活動を始めたかのように。かすかにだが感じ始めた契機は、その「ウォーミングアップ」法だった。
サクライ……
「伊那谷のひいじいさん」の苗字。
母の母の父……知らなくて当たり前の姓。知らなくても何の支障もなかった名。でも、たしかに聞いたはずの印象深い、言葉。
『ほかのことは何を忘れたっていい。だけどただ一つ、忘れないでいてほしい――』
どうして忘れていたのだろう。どうして思い出せなくなっていたのだろう。
いったい何のために、自分のからだに鞭打ってまで、素姓も知らない男たちに百遍も千遍も「魔法」をかけていたのだろう。
「今日はじめてのお二方は、できなくても決して無理をせず、自分のからだが心地よいと感じる範囲で止めておいてください」
そう忠告してから米村先生は、「十二の基本ポーズ」を指導し始めた。いくらかの婦人たちがそれに同調を始める。せせらぎのそばで鉄琴を打ち鳴らすような音楽を背景に、先生の声だけが優しく響いていた。
足を三角に開き上半身を横に倒しながら、そして逢坂りこは考えた。
花は虫に向かって咲く。
できるだけ多くの花粉を遠くへ運んでもらうために。
けれど逢坂りこは、どう現実を歪曲してみても、花ではなかった。
人間だった。
それでは人間とはいったい、何なのだろう。
何のために生きるのだろう。
それは「個性」によってまちまちであるはずだ。
あるいはもしかすると、同じ一つの巨大な根幹へと「人類の目的」はつながっているのかもしれない。
けれど。
「弓のポーズ」で足をつかむために躍起になって上半身を反らす逢坂りこはまだ、初心者だった。そんな哲学を考えるだけの余裕はなかった。
「力まず、呼吸のリズムを止めずに……」
ささやくような注意が流れに合わせて入れられる。「はい今度は、バッタのポーズ……両手を肘までお腹の下へ……」
ただ一つ、考えられることは。
彼女の目的は、できるだけ多くの男性の子を産むことでも、できるだけ多くのお金を稼ぐことでもなかった。
ただ、何かと……誰かと……強く――
「ではつづいて、肩をマットにつけて逆立ちをしていきます。首に何か問題のある人はいませんね?」
「はい、大丈夫です」
と、初参加を自覚している母が応えた。娘はわずかに首を縦に動かした。
「首に問題があるかどうか」など、即答できるような質問ではなかった。けれど「せせらぎ」を止めるのは何だか犯罪にも似た行為であるような気がした。重厚なモスクにビデオカメラを持ち込むみたいに。
それでも逢坂りこは、
――強く、愛し合いたい。
自身の脚線ごしに天井を見上げながら、そう思った。ジャージは自分でも他人の物かと見まがうほどに、堂々としたオレンジで――
こんな色のジャージを無自覚に選んで身につけていた自分に、またもや彼女は愕然とした。
「はいゆっくり、足を曲げて、下ろしましょう」
両足がマットにつくと、血行のせいか、自意識のせいか、オレンジのジャージの内側がじとっと湿っているのを実感した。中にはタンクトップ一枚しか着込んでいないが、前のチャックを開けたい欲求が湧き起こってきた。
「それでは次、頭で逆立ちをするシルシ・アサナのポーズをやっていきたいと思います。これはちょっと上級者向けなので、お二人は今回は見るだけに留めておいて――」
逢坂りこは米村先生と目を合わせて、確かめた。彼が同性愛者ではないことを。
「次回から、徐々にチャレンジしていきましょう」
そう言って米村先生は、上半身タンクトップ一枚の婦人たちと共に、肘と頭を支えにして、逆さに立ち上がり始めた。
ピンクや黄緑や薄茶色の「1」が静かに、シンクロして立ち並んでいく。
その様は実に地味であり珍妙であり、かつ神聖であった。
陳腐な教室の中にいたのは、十七歳の逢坂りこを除いて全員が、美容の下降線をたどっていた婦人方だった。こんなカルチャーセンターで、こんな悠長な運動をするのだから、それもそのはずだったけれど。
米村先生はおそらく父と同世代なのだろうが、それでも筋肉は引き締まっていたし、中年男性特有の「脂臭さ」みたいなものは微塵も感じられなかった。毬栗のような髪も口周りの髭も清潔で、むしろ魅力的であった。不穏な芳香を醸し出すほどに。
「最後に、シャバ・アーサナ、無空のポーズで心身をリラックスさせていきましょう。仰向けに寝て、両手両足を軽く開き、手の平を上に、目は虚ろに閉じて……からだが大地に沈み込んでいくようなイメージで、ゆったりと呼吸をしながら、こころをすーっと空っぽにしていきましょう……」
さくら色のマットに全身を預けた逢坂りこの拒絶感が、泥沼に沈み込んでいく無数の兵士たちのイメージと共に、徐々に消え去っていった。泥沼は息を深く吸うたびごとに乾き、やがて肥沃な大地へと移ろいでいった。たった数分間の「無空のポーズ」の中で、季節は変わり、彼女の脳内に芽吹いた言葉は、長らく地中に眠って忘れ去られていたものだった。
『――きみがこの世に生きているかぎり、いや、たとえ悪さをして、死んじまってもだ。いのちはどんなときでも、変わらずいつも、いつも、きみを愛している』
今、はっきりと思い出した。
もしもそこが、あまりに殺風景な、あまりに感涙に似つかわしくない場所でなければきっと、号泣していたかもしれないと。生まれたての赤ん坊のように、理由もなく泣きわめいていたのかもしれないと。逢坂りこはじんわりと温かくなった胸の奥でひそかにそう、思っていた。
けれど今更、そう言われても。一旦それとは別の荒野で芽生えてしまった情欲をあっさり処理してくれるほど、言葉は便利な道具ではなかった。
荒野で成長するケモノはいともたやすく人里を侵略し、作物を荒らすかもしれない。筋書きでは、災難はいつか必ず、訪れる。それでも。
内から自ら引き出した言葉は、外から念仏のごとく入るバックグラウンドミュージックよりもはるかに有用性があって。その引導さえあれば、彼女はどんな危機にも立ち向かっていけるような気がした。なぜならば。
――私はすでに、愛されている。
そして今度は、私が、愛そう。誰かを。何かを。
強く――
逢坂りことその母親がはじめて参加したヨガ教室は「また次週の火曜日」へと持ち越されることとなった。残り三ヶ月のレッスンとなるか、もっと延びるか縮むか、それは彼女たちの意思によっていた。
十七歳の女子高校生の主な会話の種は、いつの時代も変わらず、「恋愛」だった。たとえその対象が芸能人であろうとキャラクターであろうと、やはり「世間一般」の価値観でいうと、「恋愛」に勝る悩み事は女子高校生にはあり得ないことであった。
「ってかさ、聞いてよー。この前ユーイチがさ、マジやばかったの」
「なに系?」
「チキン系。何にビビッたと思う?」
「え、なになに?」
「カマキリだよ、カマキリ」
「なにそれ。マジウケる」
そして、彼女たちは大笑いするのである。
女子高校生というのはこの頃、そういった暗号のような意志疎通を難なくこなし、どんな事柄に対しても開放的に笑う感性を備えていた。
生殖に適した「若さ」というものは、人類史を通して一定の魅力を発揮するための武器となる。こと女性に関しては、武器というよりも「受容器」といったほうが言葉として的確かもしれないが――
逢坂りこの所属していた三人「グループ」の暗号は、「世間一般」よりも少し、抽象的なものであった――
「またフミ」
「いかに」
「イナ」
「なぜ?」
「チ」
「いろん」
「フカ」
当時はまだ「群れ」の意識が学級内にも強く残っていて、たとえ「友達」という関係性を疑う間柄であっても、平穏な学級生活を送るためには「集団」に所属している必要があった。
動物には生来、「縄張り」の意識や「パーソナル・スペース」といった距離感の節度があって、狭い教室に同級生が多数詰め込まれると、「いじめ」という虐待が大なり小なり自然発生するのである。
さらに難儀なことに、逢坂りこの高校は、男子禁制の「女子高」だった。
それは得てして偏りを招いた。
成績の格差、性徴の早晩、品位の優劣……
優越感が疎外を生み、劣等感が嫉妬を生んだ。一見すると「清楚な花園」に見えるその女子高等学校も、ひとたび土を掘り起こせば、おびただしい数のグロテスクがうごめいていた。
むろん、多くの女子たちは地下などに興味を向けることもなく、花園の垣根をゆうゆうと飛び越えて具体的な「恋愛」を追求したが、逢坂りこの属する形而上的な三人グループはひと味違った。
形ある肉体を持った男性に恋するというよりはむしろ、無形の理念やイメージに憧れた。たとえば、その対象はメディアを介した言葉のみの存在でもよかったし、身の回りに存在しない観念的な男性像でもよかった。
しかし一点、「洗練」だけは重視された。
そして次第に、彼女たちの実際的に交わす言葉は奇妙なまでに洗練され、まるで手持ちのボタンを押すかのように会話は素早く展開されるようになった。
「ワのみ」
「リョウ」
「よい?」
「まあ」
「ムネン」
「なら、だれ?」
「フカチ」
「即、カイ」
「イナ」
――逢坂りこと染井麻紀と高峰結菜の三人は、「下駄箱」の前にいた。
その日、ヨガ教室の三日後の金曜日、白いスチール製の六列五段の箱の中には、二十七組のローファーと一通の封筒が入っていた。そこで、おおよその他者に理解されないような密談を交わして結局、開封することなく彼女たちは下校を始めたのだった。
「マキ?」
逢坂りこは染井麻紀の明らかな異変に感づいていた。
逢坂りこが手紙をもらうことは日常茶飯事のようにあって、それはいわゆるひそかなファンレターであった。
どんな贔屓をも意図的に寄せつけないような学生生活にあって、「自分だけが彼女がアイドルであることを知っている」
――その特別感を充たすために、下級生から上級生まで、こっそりと手紙を潜ませるのだ。
あまりに似通った外面や行動パターンを選択しながらも、まるでビタミン剤を摂取しなければいてもたってもいられないように、それだけ女子高校生には「皆とは違う私」の確認が必要だった。いまだ逢坂りこがアイドル活動をやめたという情報が広まっていないだけに、その伝言は左隅の上から三段目の下駄箱に入り続けるだろう。そこに本人も疑問はなかった。しかしながら――
「フヨウ」染井麻紀は言った。
「でも」高峰結菜の言わんとすることは、その逆接だけで伝わった。
染井麻紀はこの数日、「謎の封筒」に悩まされていた。これで四通目だった。封筒の中にはいつも、一枚の写真が入っていた。
はじめは、彼女の遠足時の写真。これは掲示され、誰でも自由に買える代物だった。
次は、彼女の通学時の写真。いつも通る道、誰でも撮ろうと思えば簡単に撮れる代物ではあったが。
その次の「書店で雑誌を立読みする姿」を映した写真を見て、染井麻紀はおののいた。それはもはや、明確な意志をもって彼女を「狙って隠し撮った」写真だった。それ以外に考えられなかった。
いったい、なぜ?
四通目の封筒を開けるのが怖かった。
その「なぜ」の理由が一つも見当たらなかったからではない。その理由がいくつも見当たってしまったからである。
十七年の人生のおよそ二年間は、染井麻紀にとって公言を憚るものだった。
彼女はそれだから、高峰結菜に声をかけられるまで一年余り、高校生活を単独で過ごした。できる限り人の興味を引かず、警戒心をむき出しにしてへそピアスを隠していた。その一見上品な女子高に、自分は来るべきではないと思っていた。両親に、「愛光女子学園」なる女子少年院に入るかその「普通」の「私立」の女子高に入るか、どちらか選べと言われ、彼女には選ぶことができなかった。選択できなかったから、そのまま護送車に乗せられて、「私立」に放り込まれたといった風だった。
「ねえ、いつもどこ見てんの?」
「……さあ」
それが逢坂りこの座席の前でおこなわれた高峰結菜と染井麻紀の最初の会話だった。
はじめから彼女たちの間には何一つ、明確な「答え」がなかった。
あらかたの「?」に対し、「さあ」とか「ああ」とか「そう」とか「まあ」とかで染井麻紀は応え、高峰結菜はそれが意外と心地よかった。
逢坂りこもそんな二人を、淡い水彩画を鑑賞するように眺めた。染井麻紀の色素の薄さと高峰結菜の影の薄さを描いた画家を、逢坂りこはターナーよりも好んだ。その無名で無価値かもしれない心象にそして、
「ねえ、私もまぜて」
溶け込んだ。
自ら入ろうと思った群がりは、それが学内ではじめてだった。
高峰結菜と染井麻紀には、逢坂りこの意図が不明だった。しかしだからこそ、彼女たちは「混色」をすぐさま受容したのである。まさかそれがアラビアガムでなく乾性油を固着材としていることも知らずに――
淡い水彩画はやがて、逢坂りこの顔料によって上塗りを繰り返され、一躍学内でもっとも注目を浴びる精鋭の「グループ」と変貌を遂げた。
逢坂りこと染井麻紀と高峰結菜の三人のたたずまいは、ゴッホが最初に制作した「ひまわり」を連想させた。一連の「ひまわり」の中では地味で技巧も別段優れてはいないが、それでも無名の美術館に収めれば、誰もがその「アウラ」を目当てとして観覧に来るだろう。
絵画は自ら何も語りかけはしないけれど、鑑賞者は絵画から印象を受け、ときに見惚れる。
そんな注目に対し、人一倍警戒心の強い染井麻紀は率先して会話を記号化し、てぐす糸を身の回りに張り巡らせた。それなのに……
「謎の封筒」が届けられてしまった。四度も。
国語だけでなく英語の成績も優等だった逢坂りこは「ストーク」という単語に、「忍び寄る」とは別の「大股に歩く」「闊歩する」という意味があることを知っていた。染井麻紀を「ストーク」の目的から外し(off, out, away)、犯人に表通りを「闊歩させる」手段も感覚的にではあるが、分かっていた。そういう知識もなくだてに舞台上で踊っていたわけではなかった。
しかし、それには、逢坂りこ自身も傷つかなければならなかった。定着していた油絵具を削いで、染井麻紀どころか罪なき高峰結菜までも、いや、地味な「ひまわり」の愛好家までをも、落胆させてしまいかねなかった。失った人気はもう二度と、取り戻すことができないのかもしれなかった。
逢坂りこは悩んだ。
意識的に正しく呼吸しながら下校中、ずっと考えていた。外気はまだ、白く濁るほどに冷たかった。
「また」
「うん」
「また」
とどのつまりその日は通常通り、三人は別れることとなった。
土曜日、その高校は隔週で休みで、その次の日は休みだった。
大衆の関心はしばしば「芸能人の休日の過ごし方」に向けられたが、逢坂りこはすでに芸能人を辞めていた。そして彼女が芸能人だったときの学校の休日は主に仕事の日であったが、今は学校の休日がすなわちオフの日となった。当たり前のことがようやく当たり前になって、だけどその「当たり前の日の過ごし方」に関心を向ける民衆は少なかった。なぜなら「当たり前」とは、見るに堪えぬほどにつまらない事象だったからである。
「当たり前」とはおそらく、水平線のような現象だったからである。
「りこ、さっきからぼぅっと、何してるの?」
「え? ああ、うん、べつに」
逢坂りこは十一畳のリビングで、ぼぅっとしていた。何の予定もなかった。
宿題はあったが、二時間もあれば終わらせられるものだった。
ボイストレーニングにダンスレッスン、ライブ活動に販促活動、ファンとの交流会に情報収集……それら一切のアクションがずるりとぬけ落ちた、真の休日。
時計回りに回転する円盤の上からあっけなく落ちた先は、地獄でも極楽でもなくて、単なるじゅうたんの上だった。四十二インチの液晶テレビは消えてある。くまとうさぎのぬいぐるみは黙っている。CDコンポはしばらく起動させていない。レースのカーテンさえも微動だにしていない。
「お母さん、お買物行くけど、りこもどう?」
「うん……」二分休符分、考えた。
「やめとく」
「どうしたの? 体調でも悪い?」
母はいぶかった。どんなケースでも「ブランド商品」に仕立てあげてしまうほどの活発さを、母は娘に対して期待していた。無意識に「行く」という応えを求めていた。逢坂りこと共に買物に行くことは、ある人々にとっては「一時間一万円」以上の価値が生ずるものであった。「これほしい」の一言で、たぶん母も一万円ほどの物なら躊躇なく買い与えたであろう。
けれど、逢坂りこは断った。
「ううん、いたって元気。まあ、ちょっと考えたい事があって」
「悩みがあるなら、いつでもお母さんに言いなさいよ」
「うん、分かってる」と彼女は言ったが、肝心の悩みについては言いたくなかった。
「いってらっしゃい」
そして母はやむなく独りきりで出かけていった。単独行動に慣れない母の心に、不満が滞留するのを娘は感じ取っていたけれど。どうしても「譲れない自分」が芽生えていたのである。もしもそこで、そんな些細な出来事において、「行く」と応えていたら、顔を出したばかりの双葉たちは茶色く変色して枯れてしまっていたかもしれなかった。それらはまだ十分に根を張ってもいなかったし、天候に大きく左右されるほどに貧弱だった。自分のちっぽけな「意志」だけがバリケードだった。
「ふぅ……」
冷蔵庫の低周波がうなっていた。
何も飲みたい気分ではなかった。内に向かう熱量がずいぶん必要だった。
染井麻紀を「獲物」にしてしまったのは、自分自身の顔料のせいかもしれなかった。いや、仮に彼女自身の中に、何者かに付け狙われてしまう「やましさ」があったのだとしても。すでに染井麻紀と関わり合いになっていたのは事実だし、逢坂りこは彼女のことを嫌いではなかったし、何なら助けたい、と思っていた。
それほど「仲良く」付き合っていたわけでもなく、休憩時間と下校時間に少し、他愛のない、内容のない、波風も立たない会話を交わしていたにすぎなかったのだけれど――
頭に血が上る。
逢坂りこは、じゅうたんの上でおもむろに立ち上がり、カーテンをのけ、錠を外し、窓を開けた。
無数の微小な網目の先には、洗濯物が干してある。
母の年の割には派手な下着が、娘の年の割には地味な下着が、かすかにゆれていた。ここはマンションの七階である。倍率の高い双眼鏡でもなければ、他人には見ることのできない下着――
逢坂りこには、そういう代物に異様なまでの執着を抱く人の心理をいまいち把握することができなかった。頭では、多少なりとも理解できる。
性欲への不満、突き詰めれば愛情の餓えがいびつな形の心象を描き、キャンバスにこびりついてしまったという具合だろう。
理論は分かるのだ。
染井麻紀に「謎の写真」を送り続ける人物の筆舌に尽くしがたい想いも。
自然に愛されたくて、愛し合いたくて。
それが万人に共通する根底の幸福なのだと。
快楽の追求なんかじゃなくて、未練の解消なのだと。積み上げることなんかじゃなくて、溶け合って深く繋がり合うことなのだと。
もう頭では、かなり理解できているはずだったのだけれど。
もしも「それ」が簡単に叶うのなら、その至福がイージーに充たされるのなら、私たちはこう何度も「やり直す」必要などないのだ、と――
逢坂りこは一筋の涙を流した。
愛することはどうしてこうも、むずかしいのだろう。
「それ」を想うだけでどうしてこうも、胸が苦しくなるのだろう。
「ちゃんと、話し合わなくちゃ……」
素っ気ない記号ではなく、情感のこもった言葉で。互いに血を通わせ合わなければいけないのだ、人間は。
でなければどうして、これほどの道具に恵まれて、これほどの大脳に恵まれて、悩み多き動物として生まれる意味があるのだろう。
逢坂りこは、人間として生まれた自分を尊敬し、また染井麻紀や高峰結菜という人物を今よりいっそう敬愛しようと思った。「親しい友人」として――
「ねえ、聴いて」
月曜日、染井麻紀は振り向いた。三時間目と四時間目の間の十分の休み時間だった。逢坂りこのもっとも苦手な物理の授業が控えている。大事な話をするタイミングでは決してなかったのかもしれない。けれど、黒板の文字を消し終わったその日、日直当番だった染井麻紀を待ち構えていたのは他の何者でもなく、逢坂りこと高峰結菜だった。
その日の朝、逢坂りこはまず高峰結菜だけに話を持ちかけた。「ちゃんと相談し合おう」という、とてもシンプルな約束――「でも」高峰結菜は言った。「怖い」と。
「何が? 何が怖い?」
高峰結菜は答えなかった。曖昧に小首を傾げただけだった。それ以上強引に問い詰めれば、高峰結菜の協力は得られなかっただろう。彼女の心は、まっすぐ立つには少し、頼りなさすぎる。逢坂りこは怖さの原因を明らかにせず、「マキのこと、心配?」とだけ訊いた。
「うん、まあ」
「私も」
それだけでよかった。ただ、「あなたのことを心配している」。そのことを染井麻紀に、間違いなく伝えるだけでよかった。でも、いったい、どんな言葉で?
何も言わず、態度だけで安堵を与えられるほど、彼女たちは深く繋がってはいなかった。包囲網となって染井麻紀が落ち着ける居場所を提供するには、あらゆる絶対数に乏しかった。逢坂りこには、「ねえ、聴いて」の先に紡ぐ言葉に、確固たる足場が存在しなかった。それでも、吐き出さずにはいられなかった。正しく息をするために。
「?」
染井麻紀はその改まった表情から判断して、首を軽く横に振って、チョークで汚れた手を叩き、教室を出ようとした。
「待って」
「イナ」
教壇の上からそそくさと下りて廊下に出た染井麻紀を追いかける逢坂りこのあとを高峰結菜が付き従った。
「なぜ?」
「チ」
第一に教室のもっとも目立つ場所で話し合うなんて、恥にも程があった。染井麻紀は逃げるようにトイレへと向かった。尿意も便意もなかったけれど、もはや「人付き合い」自体が億劫となっているところへ、どうして、
「マキ!」
いきなり逢坂りこは名前を呼んで腕を掴んだり、なんて、そんな馬鹿みたいに野蛮なことを、したりするのだろう。暑苦しい……
――染井麻紀の家庭は、まさに息が詰まるようなそれだった。
父は国家公務員で「特定独立行政法人」という何やらややこしいお堅いところに勤めていて、母は大学の准教授に従事していた。どちらも余裕をもってそのポストに到達したのではなくて、マジメに努力した結果、獲得したそれだった。
両親は特別に愛し合って結婚したのではなかったし、家庭を持つこともあるいはステータスの一部であったのかもしれなかった。子供を欲しいと思ったことなどなかったが、成り行き上、一人の娘ができたのだった。あるいは「できてしまった」のだった。
そんな彼らには娘をまっとうに愛することなどできなかった。彼らが悪いのではなく、教科書がなかったのだ。育児の参考書は多々あれど、父は厳しく、母は優しく、とマニュアル通りに接すれば上手く育つ「子供」ではなかった。表面だけをいくら取り繕っても、染井麻紀にはすべて、分かってしまっていた。だからこそ、両親の態度は「うざい」以外の何物でもなかった。「うざい」の底に、愛情が感じられなかったのだ。
そしていつしか、彼女は「愛情」というものがどういうものなのか、それを把握するために二年間、試行錯誤をした。まさかそれが、少なくとも両親の価値観において、「取り返しのつかない過ち」だとは……中学生の女子に、分かるはずもなかった。高校生になっても、分かりたくもなかった。
「取り返しのつかない過ち」から逃げて、全部忘れ去ってしまうことが、染井麻紀の唯一の希望だった。その希望をむしばむ封筒に、写真……
そして、逢坂りこ……
「なに……?」
こいつの眼にはどうして、見たくもない自分の姿がまざまざと映し出されてしまうのだろう。染井麻紀は思った。きっと、こんな魔性の女と付き合ってしまったことが、災いのはじまりだったのだと。
その背後に潜む高峰結菜を見て、そう思い、歯が震えた。がちがちがちと、口の中で奥歯が鳴って、逢坂りこの手を振り払おうとした。ところが、
「これ」
「……?」
逢坂りこはもう一方の手で、染井麻紀に触り慣れた何かを握らせた。見ると、四つに折りたたまれて小さくなった一枚の再生紙だった。
「下駄箱に、入れておいて」
「は……?」
「お願い」
逢坂りこは、それが最後のひと押しだと覚悟して、眼を合わせて懇願して、染井麻紀の手を放した。警戒心と猜疑心のひと際強い女子高校生にとって、そういう「押し付け」をされるのがもっとも癪に障った。
「押し付け」は両親や教師やマスコミからだけで手一杯だった。同級生とは気楽で空疎な関係を続けていければそれでよかった。いったい何のために一年強の間、孤独に耐え忍んだと思っているのだ。染井麻紀は、自分の曲げてきたへそが台無しにされたようで、
「フヨウ」と、再生紙を叩き返した。
そしてそのままの勢いで女子トイレの個室に閉じこもった。休み時間終了かつ授業開始のチャイムが鳴るまで、そこから出ないつもりだった。高峰結菜がふと、四つ折りの再生紙を拾って、見た。
『ストーカーさんへ。堂々と、胸を張って、出てきなさい』
「さん?」
その敬称がどうしても理解しがたくて、なんだかんだの日常を侵した犯人は結局、逢坂りこだったのだと早合点して、光源である彼女の瞳から高峰結菜は、あっさりと姿を消した。こんなにやわな絆だったのかと、そうショックを受ける暇もなく――
こうして、ゴッホの最初の「ひまわり」は見ず知らずの個人蔵へと収められた。そういえばそんな絵もあったね、と誰かの語り草となる以外に、二度と築かれ得ない「関係」へとなり下がってしまったのである。たとえばかつて、線香花火を囲い合った仲間たちの面影が実際よりもきらめいて懐かしまれるように。陳腐で、あっけない。べつに高校を卒業して大学に行ってまで付き合いを続ける気もなかったし、ましてや成人して同窓会でたまに会って「うちの旦那」の悪口を言い合うような間柄になろうなんて、これっぽっちも思っていなかったけれど……
そのまま窮屈な場所に四角く収められることを、逢坂りこは、認めたくなかった。
――昼休み。これまで通りなら、三人は教室で机を合わせて黙々と弁当を食べ、図書館に行くか天気のいい日には校庭を出歩くかするのだけど、染井麻紀も高峰結菜もおのおの弁当を持って、逢坂りこを残してどこかに散ってしまった。まるで昼食を摂る前に、鬼ごっこをしなければならないみたいだった。
学校には、校則以外にも暗黙のルールが縦横無尽に張り巡らされてある。しかしその多くは蜘蛛の巣みたいに人間の手にかかればたやすく破けてしまうものであって……意外と、蜘蛛は巣を破かれると、怒る。そして逃げる。でも、人間は巣を破壊する。
その連鎖はとめどもなく繰り返されて、逢坂りこもまた、触れてはいけない純白の糸を破ってしまったのかもしれなかった。代わって、物理の「力のモーメント」におけるサインとかシータとかの入り組んだ記号が頭に絡みついて離れない。
痛い、固い、見えない――
「友達」の心が、まるきり読めない。弁当の玉子焼きが口の中で砂と化す。お節介をしてしまった。逢坂りこの十七年の人生ではじめての明瞭な「対人不和」。いわれてみれば、思い返してみれば――
誰かとの関係が途切れることや気まずくなることはたしかにあったはずだけれど、こんなに対人関係で打ちのめされ、悩んだことは実際のところ、あり得なかった。なぜなら逢坂りこはずっと、大抵の「人を見下してきた」からだ。人を尊敬して、手を差し伸べようと頑張ってみたら、こうなってしまうことを、暗に予想していたからだ。
――五時間目と六時間目と下校時間と、「ぼっち」で過ごした三時間は長く、骨身にしみるほどに切なかった。
翌火曜日、「どうやって仲直りしようか」と考えあぐねて放課後、そして午後七時、週に一度のヨガ講座。この日も「呼吸法」「太陽礼拝」「シバナンダヨガ 十二の基本ポーズ」、最後に「リラックス」と、まるで変わらぬリズムで、恒例の行事みたいに訓練していった。
米村先生にとっては、受講生たちが熟達しようがしまいが関係のないことのように思われた。九十分のレッスンが終わり、逢坂りこは彼に相談したかった。「ストーカー撃退法」と「仲直りの仕方」と「人の愛し方」について。なんとなく彼なら、適正な分だけの助言を与えてくれそうだったのだ。
けれど右隣には母がへばりついていたし、まだフランクに話せるほどの間柄ではなかったし、何よりも時間がなかった。「本日もお疲れ様でした」「ありがとうございました。また次週もよろしくお願いします」という会釈ほどの暇しかないのが実状だった。あるいは春まで通い続ければ、連絡先の交換くらいは自然におこなえるのかもしれない。でも逢坂りこの問題に限ってはそんなに、待てない。
「逢坂さん、一回目より少しだけ柔らかくなりましたね」
帰りがけに米村先生はおそらく、世辞を述べた。初心者である逢坂母娘の心をほんの少しだけ、ほぐすために。
「そうですか、それはどうも。肩こりも少し楽になって、ヨガって本当に効くんですねえ」
と、逢坂りこの母は応えた。本当に実感なんて、ないくせに。娘はそんな母親の醜い声色を耳にするたび、よく思う。
母親がこの世から三日三晩でも消えてくれたなら、どんなにか解放感を満喫できるだろう、と。
「それはよかった。何事も継続は力です。是非とも気長に続けてみてください」米村先生は見事なお辞儀をして、階段を軽やかに左回りで下りてゆく。
ぐっと下唇を噛みしめて逢坂りこは少し、駆けた。どうしても今日、聞かなければいけないことが一つだけ、あったのだ。なるべく婉曲的に、ありきたりな風を装って――
「あの、先生」
「はい?」
「一つだけお聞きしたいことが」
「はい、何でしょう?」
「もっと柔軟なからだをつくるために、日々心がけることは何ですか?」
一瞬、時が止まったような気がした。必死になって質問した自分「らしくなさ」が露呈されているかもしれなくて、「りこ?」と母がいぶかしげに迫ってきていて、人対人の面倒臭さが排気ガスを吸い込むみたいに鼻腔をむせ返らせる。
逢坂りこの「舞台の上にも三年」は、自意識を過剰にさせるには充分すぎた。米村先生が微笑み、答えるより前に逃げ出したかった。
「肩の力を抜き、ぶらぶらすることです」
水と大豆にこだわった豆腐の味わいなんて、逢坂りこにはいまいち分からなくて、ただ目をしばたたかせた。
「抜けた分だけ戻ってくるのが自然のはたらきですから、自然を信頼できた分だけ柔軟さは手に入ります」
「なるほど、深いですねえ」と、母はその深淵を一瞥もせずに言った。
「大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございました。また来週、よろしくお願いします」
それで、別れた。
帰途、十数分の電車の中で逢坂りこは、何も考えなかった。水曜日が来て、木金土とまめに肩の力を抜き、なるべくぶらぶらしながら過ごした。
一人で過ごすことはべつに苦じゃなかったし、事務的にクラスメイトたちと会話する蓋然性もあった。染井麻紀や高峰結菜と常に一緒であるという必然性のほうが現実にはなかったのだ。
ただ朝登校して、六時間の授業に出席して、おやつ時に下校する。たまの行事はあれど、本質的にはその繰り返し。わざわざ厄介事を抱え込むのは、成人してからでも遅くないだろう。
このまま消滅するのが自然の流れであるように思われた。はなから彼女たちも自分も、描いた「ひまわり」のカンケイも全く「自然体」ではなかったことに、今更ながら気がついてしまったのだから。
「世界」というのは、その「光景」を完全に見なくなれば、意識から外してしまえば、「存在しない」も同然となる。いつかの「ストーカー」も「カゲ」も都合の悪いものは全部、単なる健忘や盲点として済ませてしまえる。気味の悪いものは一旦、全部押入れの中に放り込んで、またきれいな新しいカンケイをつくることこそ、自然。それでいい。開かれた、風通しのよい、ビーチパラソルの下で談笑し合えるような友人たちこそ、新しい逢坂りこの真に求めるもの。だから――
「ねえ、聴いて」
月曜日、染井麻紀と高峰結菜は振り向いた。二人がそろうのを、あれ以来ひそかに待ちわびていた。意識的に無視し合っていた一週間だったけれど、やはり「人間の関係」というのは半分不自然でぎこちなく、半分自然の磁力で抗いようもなく引き合ってしまうものなのだろう。
だから、逆説的に、逢坂りこは決めたのだ。染井麻紀と高峰結菜を見過ごしてしまうのは、まだ早い、と。朝の「下駄箱」の前で。
「?」
逢坂りこはそして、姿勢を正して言った。
「この前は、お節介して、ごめん。だけど、私は……」
もはや「自分を見下ろす自分」はいなかった。逢坂りこは一心に、自己主張したかった。
「ただ、力に、なりたかった……」
そのあとの傷害よりも、それを伝えなかった後悔のほうが長く尾を引く――これで本当に終わるなら、それでよかった。何より大事なのは、その終わらせ方だった。
逢坂りこはあの無名な「淡い水彩画」を愛していたから、このまま顔料も落とさない中途半端な状態で放置しておくのは、どこか罪深いことのように感じられたのだ。
「それだけ」
染井麻紀と高峰結菜は、逢坂りこの瞳を見据えた。
澄んだ水面に、かたくなな岩肌がゆらいで映る。二人はそこに、もう少し鮮やかな色彩を足してもいいような気がした。高峰結菜はおもむろにスクールバッグのファスナーを外して、四つ折りの再生紙を取り出した。それを無言で染井麻紀に差し出す。観念したように紙を受け取って、左三列の一段目に、彼女は上履きの代わりにそれを入れた。
「リョウカイ」
こうして染井麻紀の靴箱の中にはその日、ちっぽけな紙切れが一片収められた。
放課後にそれが消えてなくなったのと同時期に、彼女に送り届けられる「謎の写真」も自然と、
消えてなくなったのだった。