【ネット小説】生彩 Ⅱ堂々たるオレンジ

堂々たるオレンジ

社会はまだ、黒服の男たちが支配していて、まだまだその進展は数多の「集団的自衛」意識の中で、とどまることのないように思われた。男たちの多くが外へ外へとその妄信を追い求め、女たちの多くがその濁流に呑み込まれていた時代であった。和紙のあちらこちらには墨汁が野放図に撒き散らされ、霧霞はたえまなく群集をとらえ、駆り立てていた――

かのように思う人々も多かったが実際、西暦二〇一二年から二〇一三年にかけて極大期を迎えるはずだった黒点は、二〇一一年のそれよりも少なく、それまでの観測記録と照らし合わせても異常な事態だったという。黒点の活動は人々の意に反して停滞を始めたのかもしれなかった。あるいは――

太陽も地球も、政治も経済も、大衆の意に沿うようにはつくられていないのかもしれなかった。

進展か停滞か――

いずれにしても、結論や決着がつくにはまだ時間がかかりそうだったし、その前に北風が挑むという山場があるのかもしれなかった。

むろん、そんな天体の事情を知る由もない十七歳の逢坂りこの平成二十五年・元日は、大晦日のカウントダウン・ライブを中止にしてしまった余波か、ただただ茫然と過ぎていった。

人気がそれほどでもなかったという事実が、功を奏したようだった。芸能事務所も個人経営のマンションの一室みたいなところにあったし、三年の活動を経て、逢坂りこへの期待は随分と薄れていた。それだから、「違約金、三十万円ね」という冷淡な罰則を受けただけで済んだ。

 

「ごめんね、お母さん」

「いいのよ。あんな事故があったのだから、当然のこと。それに、あなたが三年間のアイドル活動で稼いだお金――ほら」

棚の三段目から取り出した預金通帳を、母は開いて見せた。

およそ九十万円――

「ちゃんと貯めておいたから」

年間約三十万円――

結構いろいろ、ライブとか握手会とかネットラジオとか雑誌モデルとかいろいろ、やったはずなのに。それも独りで。たった、それっぽっち。それっぽっちのアイドル活動。それっぽっちの思春期の、価値――

 

「もう、やめる」

「それって、つまり……?」

「引退……したい」

「……うん」

母は娘の涙を見て、肯定した。

 

違約金の三十万円を差し引いて、逢坂りこの手元に残ったのは、約六十万円だった。もう三で割るのはやめておいた。それは南米にツアー旅行に行けるほどの金額だったし、それはそれで「社会見学の代金」として考えれば充分儲けものだったと、父も母も納得した。

両親の心を操縦するのは十七歳の逢坂りこにとって、カマキリを捕まえるほどにたやすいものだった。七歳以降、彼女がカマキリを目にしたのはただの一度もなかったけれど。

 

「それじゃあ、新年の抱負――」

テレビの通信販売で購入したおせち料理をつまみながら、母が提案した。

「お父さんから、どうぞ」

「うん? そうだな……部長、いやせめて副部長には昇進したいな」

当時、四十四歳の父のもっとも重大な気がかりは「昇進年齢の平均値」だった。すでに「最短」はかなわなかったが、せめて「標準」には収まりたかったのだろう。

「お父さんなら、いけるよ。部長さんにでも」

父の地位が上がることは、彼女の保護の強化を含蓄していたけれど。逢坂りこは世辞でも何でもなく、無自覚に父の心を持ち上げた。

「そうか? じゃあ、りこの分まで頑張らなくちゃだな」と、父は得意の笑みを見せた。

「いいわね、あなたは。分かりやすい目標があって」

専業主婦の母は、自分の立場に少なからず不満を持っていた。

「お母さんも何か、習い事でもしたら?」

その不満を逸らすべく、逢坂りこも提案してみた。彼女が緩衝材となることで、この核家族を安定させてきたのだった。

「そうねえ」

なのに、まさかその何気ない一言が、小さな革命の引き金になろうとは……

「ヨガでも習いに行こうかしら。最近けっこう流行ってるらしいし、アンチエイジングの一環として」

「へえ面白そう、私もやってみたい」

「りこはまだアンチエイジングなんて年でもないでしょう?」

と、母は茶化したが、

「いいじゃないか。身体を動かす習慣は若いうちから一つでもあったほうがいい」

それが父の信念の一つだった。妻や娘が、いつまでも若々しく美しい肉体を維持してくれることは、父にとっても喜ばしいことであった。

「そうねえ」

アイドル活動に勤しんでいたことを、逢坂りこは内密にしていたが、それでもその噂は学級の垣根を越えて流布されていたし、もはや新たにクラブ活動に中途参加するのは、その気位の高さからいっても、とても気後れだった。だからといって、彼女の高校二年生の三学期を「空っぽの頭」のまま過ごすのは、どうにもいたたまれなかった。

じきに「受験生」へと変わる冬――

学校生活において恋人どころか友達すらも大してつくってこなかった逢坂りこにとって、多彩な照明と熱狂する観客の幻影を薄めるだけの「ゆるやかなひと時」が必須だったのかもしれない。

「三ヶ月だけでいいから。お願い、お母さん」

「……うん、分かったわ。一緒に習おう」

構えることを知らぬ母親は、娘の食指の動きを払いのけることができなかった。ましてや、その「三ヶ月」の先に娘がたどり着く景色を見通すことなど、複眼でもない黒点に可能なはずもなかった。

 

「ヨガの基本は、呼吸法。一にも二にも、呼吸が大事です。はい、鼻から吐いてーー、鼻から吸ってーー、吐いてーー……」

本格的なヨガ・スタジオやヨガ・スクールを選ぶのはなんとなく気が退けて、カルチャーセンターの講座を受講することにしたのだった。「ホットヨガ」「ピラティス」「リンパ体操」などと、さまざまな「健康」講座がひしめく中で、逢坂りことその母は「リフレッシュヨガ」を選んだ。

決め手は、「力を抜きゆったりとした動きで、頑張らずに無理なくおこないます。どなたでもいつからでも始められます」という掲示だった。週に一度、火曜日の午後七時から、寒さでこわばったからだをほぐし、頬を紅潮させる熱を発散させて、気分を一新する。

精神的にではなく、具体的な行動を通して。

初心者の逢坂母娘を迎え入れた当日、シバナンダヨガ国際公認講師の米村守先生はまず、「正しい呼吸法」について再三の説明をした。

「肺の一部だけでなく全部を使うイメージで、お腹の底まで酸素が隅々と行き渡るように、はいもう一度ー、鼻から吸ってーー、吐いてーー……」

逢坂りこはそれまで、自分がどれだけ浅い息をしていたかに否応なく気づかされ、愕然とした。九〇分のライブのステージ上であれだけ息が上がるのも当然だった、と。

しかしあぐらをかいて坐り、右手を胸に、左手を下腹部に当てて呼吸に意識を集中していたので、その愕たる想いを示すことはできなかった。あたかも平静に、何も気づかなかったかのように、次の「太陽礼拝」のポーズに移行していた。

「それでは、太陽への感謝の気持ちを込めて、ウォーミングアップをおこなっていきます。肩の力を抜いて、背筋をまっすぐ、胸の前で合掌……」

両手を天井に向かって上げ、上半身を曲げて両手を床につけ、目線を前方へ、片足ずつ足を後ろへ伸ばして腕立て伏せの姿勢に、腕を曲げて顎と胸を床につけ、うつ伏せの体勢から上半身を持ち上げて反らし、ぐっと腰を持ち上げ身体をくの字に、そのまま足を前に出して縮んで倒れた上半身を、うーんと天井へ向かって伸ばしたら、ふたたび合掌……

と、逢坂母娘といくらかの婦人たちは、一つ一つの動作を丁寧に、ゆっくりとおこなっていった。

逢坂りこのからだの中で失われていた何かがゆっくりと回帰してきたかのように。いや、「失われていた」のではなく、単に「眠っていた」だけの何かがふたたび活動を始めたかのように。かすかにだが感じ始めた契機は、その「ウォーミングアップ」法だった。

サクライ……

「伊那谷のひいじいさん」の苗字。

母の母の父……知らなくて当たり前の姓。知らなくても何の支障もなかった名。でも、たしかに聞いたはずの印象深い、言葉。

 

『ほかのことは何を忘れたっていい。だけどただ一つ、忘れないでいてほしい――』

 

どうして忘れていたのだろう。どうして思い出せなくなっていたのだろう。

いったい何のために、自分のからだに鞭打ってまで、素姓も知らない男たちに百遍も千遍も「魔法」をかけていたのだろう。

「今日はじめてのお二方は、できなくても決して無理をせず、自分のからだが心地よいと感じる範囲で止めておいてください」

そう忠告してから米村先生は、「十二の基本ポーズ」を指導し始めた。いくらかの婦人たちがそれに同調を始める。せせらぎのそばで鉄琴を打ち鳴らすような音楽を背景に、先生の声だけが優しく響いていた。

足を三角に開き上半身を横に倒しながら、そして逢坂りこは考えた。

花は虫に向かって咲く。

できるだけ多くの花粉を遠くへ運んでもらうために。

けれど逢坂りこは、どう現実を歪曲してみても、花ではなかった。

人間だった。

それでは人間とはいったい、何なのだろう。

何のために生きるのだろう。

それは「個性」によってまちまちであるはずだ。

あるいはもしかすると、同じ一つの巨大な根幹へと「人類の目的」はつながっているのかもしれない。

けれど。

 

「弓のポーズ」で足をつかむために躍起になって上半身を反らす逢坂りこはまだ、初心者だった。そんな哲学を考えるだけの余裕はなかった。

「力まず、呼吸のリズムを止めずに……」

ささやくような注意が流れに合わせて入れられる。「はい今度は、バッタのポーズ……両手を肘までお腹の下へ……」

ただ一つ、考えられることは。

彼女の目的は、できるだけ多くの男性の子を産むことでも、できるだけ多くのお金を稼ぐことでもなかった。

ただ、何かと……誰かと……強く――

「ではつづいて、肩をマットにつけて逆立ちをしていきます。首に何か問題のある人はいませんね?」

「はい、大丈夫です」

と、初参加を自覚している母が応えた。娘はわずかに首を縦に動かした。

「首に問題があるかどうか」など、即答できるような質問ではなかった。けれど「せせらぎ」を止めるのは何だか犯罪にも似た行為であるような気がした。重厚なモスクにビデオカメラを持ち込むみたいに。

それでも逢坂りこは、

――強く、愛し合いたい。

 

自身の脚線ごしに天井を見上げながら、そう思った。ジャージは自分でも他人の物かと見まがうほどに、堂々としたオレンジで――

こんな色のジャージを無自覚に選んで身につけていた自分に、またもや彼女は愕然とした。

「はいゆっくり、足を曲げて、下ろしましょう」

両足がマットにつくと、血行のせいか、自意識のせいか、オレンジのジャージの内側がじとっと湿っているのを実感した。中にはタンクトップ一枚しか着込んでいないが、前のチャックを開けたい欲求が湧き起こってきた。

「それでは次、頭で逆立ちをするシルシ・アサナのポーズをやっていきたいと思います。これはちょっと上級者向けなので、お二人は今回は見るだけに留めておいて――」

逢坂りこは米村先生と目を合わせて、確かめた。彼が同性愛者ではないことを。

「次回から、徐々にチャレンジしていきましょう」

そう言って米村先生は、上半身タンクトップ一枚の婦人たちと共に、肘と頭を支えにして、逆さに立ち上がり始めた。

ピンクや黄緑や薄茶色の「1」が静かに、シンクロして立ち並んでいく。

その様は実に地味であり珍妙であり、かつ神聖であった。

陳腐な教室の中にいたのは、十七歳の逢坂りこを除いて全員が、美容の下降線をたどっていた婦人方だった。こんなカルチャーセンターで、こんな悠長な運動をするのだから、それもそのはずだったけれど。

米村先生はおそらく父と同世代なのだろうが、それでも筋肉は引き締まっていたし、中年男性特有の「脂臭さ」みたいなものは微塵も感じられなかった。毬栗のような髪も口周りの髭も清潔で、むしろ魅力的であった。不穏な芳香を醸し出すほどに。

「最後に、シャバ・アーサナ、無空のポーズで心身をリラックスさせていきましょう。仰向けに寝て、両手両足を軽く開き、手の平を上に、目は虚ろに閉じて……からだが大地に沈み込んでいくようなイメージで、ゆったりと呼吸をしながら、こころをすーっと空っぽにしていきましょう……」

さくら色のマットに全身を預けた逢坂りこの拒絶感が、泥沼に沈み込んでいく無数の兵士たちのイメージと共に、徐々に消え去っていった。泥沼は息を深く吸うたびごとに乾き、やがて肥沃な大地へと移ろいでいった。たった数分間の「無空のポーズ」の中で、季節は変わり、彼女の脳内に芽吹いた言葉は、長らく地中に眠って忘れ去られていたものだった。

 

 

『――きみがこの世に生きているかぎり、いや、たとえ悪さをして、死んじまってもだ。いのちはどんなときでも、変わらずいつも、いつも、きみを愛している』

 

 

今、はっきりと思い出した。

もしもそこが、あまりに殺風景な、あまりに感涙に似つかわしくない場所でなければきっと、号泣していたかもしれないと。生まれたての赤ん坊のように、理由もなく泣きわめいていたのかもしれないと。逢坂りこはじんわりと温かくなった胸の奥でひそかにそう、思っていた。

けれど今更、そう言われても。一旦それとは別の荒野で芽生えてしまった情欲をあっさり処理してくれるほど、言葉は便利な道具ではなかった。

荒野で成長するケモノはいともたやすく人里を侵略し、作物を荒らすかもしれない。筋書きでは、災難はいつか必ず、訪れる。それでも。

内から自ら引き出した言葉は、外から念仏のごとく入るバックグラウンドミュージックよりもはるかに有用性があって。その引導さえあれば、彼女はどんな危機にも立ち向かっていけるような気がした。なぜならば。

 

――私はすでに、愛されている。

 

そして今度は、私が、愛そう。誰かを。何かを。

強く――

逢坂りことその母親がはじめて参加したヨガ教室は「また次週の火曜日」へと持ち越されることとなった。残り三ヶ月のレッスンとなるか、もっと延びるか縮むか、それは彼女たちの意思によっていた。

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