【ネット小説】生彩 Ⅴ内気な青

彼女たちはそれから、月並で豊かな日本語で会話を交わすようになり、自ずとその輪も広がっていった。何だかクラス全体が和やかになったみたいだ、と逢坂りこには感じられた。

二年一組二十七人の女子全員が、それなりに打ち解け合って、ああねこうねと言葉を交わすようになったのだ。厳冬の二月に入って、ようやく――

しかし諸行は無常。季節はめぐり、三年二組になった逢坂りこは、三年一組の染井麻紀と高峰結菜と離ればなれとなった。油彩画は水彩画に回帰した。けれどそれは以前よりもまして精妙となったし、もはや心残りはさしてなかった。

また一から築く人間関係はちょっぴり憂鬱で、大学受験の勉強もしなくちゃで、しばらく逢坂りこは心の窓を閉じることにした。なにぶん外の気候は穏やかだから、日に数回換気するだけで、特に問題はなかったのだ。それに――

『先生は、どうしてヨガに目覚めたのですか?』

週に一度のヨガ教室は変わらず続けていて、しかも母が「家計の問題」で辞めることになって、四月から逢坂りこが一人で米村先生のもとに通うようになった。むろん個人授業ではないけれど、彼女は機を見計らって米村先生のメールアドレスを聞き出すことに成功したのだった。建前は「ヨガの哲学をもっと深く知りたい」であった。

『きっかけは、大学生のときにヒマラヤ山脈に登ったことです』

ショートメッセージはすぐに返ってきた。情報技術隆盛の時代だった。文面のやり取りが「スマートフォン」という多機能携帯電話の画面の中で手軽にできた。

『ヒマラヤって、エベレスト?』

『そうです。けど、僕は遠目からエベレストを眺められる場所まで行っただけです』

逢坂りこは信州でかつて見た雄大な山脈のイメージを右脳に浮かべながら、右親指で素早く文章を打ち込んでいった。

『あ、わかりました。その光景があまりにきれいだったもんで、すっかりヒマラヤにはまって、そこでヨガにも魅せられた、とか?』

『いいえ、その逆です』

『逆?』

『はい、天気が悪くて、目的のエベレストがほとんど見えなかったんです。せっかく七時間もかけて行ったのに』

『それはお気の毒様です』

『いえいえ。それで悔しくて、いつか必ずもう一度ヒマラヤに行こう、といろいろ勉強していたら、ヨガにばったり出くわした、という次第です』

『ばったり?』

『ええ、僕の半生はばったりにあふれています』

逢坂りこはその文章を一文字ずつもいで、ミキサーにかけて飲み干してから、言葉をついだ。夜はすっかり深まっていて、米村先生はもう眠くてメッセージのやり取りを早々に切り上げたいのかもしれないけれど、そんなことは彼女にとってはお構いなしであった。

『なるほど。それで、晴れたエベレストはもうご覧になれましたか?』

その一文をついだあと、しばらく返信は送られてこなかった。じっと液晶パネルが発する光を直視しながら、逢坂りこはため息をついた。

先生に教えてもらった「深くゆったりした呼吸」が、先生のせいでできなくなったような気がした。親子ほども年の離れた男性に抱くこの感情は、ヨガの倫理や哲学に背いているのではないか、と不安になった。まだ彼女はそれらについて教えてもらっていないけれど、きっと。

何より米村先生は、妻帯者であった。どういうわけか子供はいないそうだが、すでに「ばったり」出会って結ばれた配偶者がいたのだ。そんな私的な情報は知っていた。

「我ながら……」

情けない、と逢坂りこは思った。

情で満たされた浅いプールの底に沈むように、そして彼女は眠りに落ちた――

気づくと、意識は水の中にいた。

白い光の穴に向かって、無数の泡が吸い込まれてゆく。ゆらめいている。水は絶え間なく、ゆらめいている。

そして「私」は、そこにいた。

青のリボンの白いセーラー服を着た「私」が浮いているのを、逢坂りこの意識は観察していた。逢坂りこは、ただ死体のように漂う「私」が少し、不憫に思えた。まだ全裸でいたなら、下半身が魚だったなら、少しは絵になったかもしれないのに。

しかしセーラー服の「私」がこちらに顔を向けると、逢坂りこは気づいてしまった。「私」の鼻から湧き出る小さな泡のせいで、自分がまるで息をしていないということを――

 

「はあっ!」

電気の点いたまま、スマートフォンを握ったまま、ベッドの上でうつぶせに寝ていた。

『残念ながら、まだ見れていません』

そしてその八分後――

『今日はもう遅いので、先に眠りに就きます。また明日。おやすみなさい』

米村先生という男は、どこまでも律儀で、優しかった。けれど逢坂りこには、それがまるで「娘」に対する愛情だと、分かりきっていた。

「……おやすみなさい」

リモコンのボタンが押され、電気が消えた。現実にはただの暗がりしかなかったから、すぐにカラフルな夢を見たかったのだけども、目が冴えてなかなか眠れず、さらに目覚めたときには夢を見た憶えなど丸きりなかった。そんな殺生なヨが明けても明けなくても、やるべきことがある限り、日常は続くのだろう。

逢坂りこの場合は目下、受験勉強だった――

この頃、教室の空気が天候に反して、ピンと張りつめていた。そこは「頑張れば一流大学」に合格する程度の進学校で、「頑張った者すなわち勝者」だった。まだ結果の見えない時期だからこそ、教師たちは目に見える「努力」を最高の美徳とした。

自習室がすぐに満員となった。教室の後ろの棚には、世界思想社教学社発行の「大学入試シリーズ」通称「赤本」がずらりと並べられていた。

あるいはそういった現象は、一年も二年も前からその高校の「常識」だったのかもしれなかった。けれど逢坂りこがそれらを認識し出したのが、三年生にもなってようやく土砂降りの六月だった、というだけのことで――

ため息はつきそうになかった。

それにもまして、「進路」が定まっていなかった。就職する気も専門学校を行く気もいわんや嫁ぐ気もないから、大学に進学する大通りしかないように思われたけれど、それでも針は東に西に、国立に私立に、文学に法学にと、ゆれにゆれて、相談する先は毎度、学校のではなくて、ヨガの先生――

『いっそ私もヨガ講師になろうかな、なんて』

注意して、また受験勉強のほうへ戻してほしい。そんな逃げ口上だった。

『本気でなろうと思えば、明日からでもなれますよ』

「え?」そんな返答を求めていたのではなかった。

『いや、それは……』

『大げさですが。ヨガ講師養成講座に参加し、協会から認定書を取得すれば、すぐになれますよ、本当に』

「うーん」

否定してほしかったのに。

あなたはまだ若いのだから、アスファルトで塗り固められた、信号や街灯つきのスムーズな道を歩くべきですと、優しく諭してほしかったのに。

ヨガ講師の道は逢坂りこにとっていささか、いやかなり、非理性的で未舗装な脇道だった。

『いろいろ、自分なりに考えてみます。ありがとうございました』

スマートフォンの画面を暗転させると、どこかでシャッターを切られたような音がした。我がままな自分の姿を、きっと神様は撮影したのだろう。逢坂りこはそんな自分に腹が立ったけれど、いっそ腹の虫に心ゆくまで羽ばたかせてやろうと、

 

「お母さん、信州に行きたい」

 

と言った。

「どうしたの、突然?」

「憶えてる? ひいじいさんのこと」

風呂上がりで髪も生乾きの母は、呆気にとられた。むしろ当時幼かったのは娘のほうで、あれ以来「ひいじいさん」が話題に上ったことなど一度もなかったのに。

「もちろん憶えているわ。でも、なんで今頃?」

「心配しないで。きわめて冷静に、将来のことを考えた上で、また行きたくなったの」

「そうなの……」

冷静に突飛な要求をする娘に少し不安を覚えながらも、母はその要求を呑むしかなかった。逢坂りこが自らああしたいこうしたいと訴えることはそう多くない。週末の予定は特にない。梅雨は明けていないが、天気予報も晴れマーク。何よりその白目の青みがかった透明感が、年長者の拒否権をあっけなく奪い去ってしまった。

「しかたないわね……ただし」

これだけは事前に伝えておかなくてはいけない。

「信州のおじいちゃんはもう、この世にはいないのよ」

小学校を卒業する前にはすでに亡くなっていたのだけど、娘に伝えるまでもない些末なことに思えていた。何しろ彼は隠居していたし、娘とはたったの一度きりしか会っていなかった。葬儀も内々でおこなわれた。てっきり娘は「伊那谷のひいじいさん」の存在を忘れているのだと思っていたし、実際、忘れきっていた。

「うん……それでも、ただあそこにもう一度行きたい」

この子は……と、母は畏れた。山を拝むように、海の底を覗くように。

「行こうか、土曜日から一泊二日で」

「うん」

何も見えないままに、まずは「行くこと」だけを決めた。

それから逢坂りこはインターネットを利用して、自分自身の判断によって、簡素な旅行の手配をすべて一人でやった。本音は独りきりで行きたかったのだけど、実際的な「未成年」には「保護者」が付き添うべきだとされた。そんな時代で未熟な彼女にでき得ることといえば、主に「検索」と「予約」であった。

それでも父は置いておくことにした。「留守をお願い」と頼んだら、「どんと任せろ」と応えた。父も曲がりなりに、大人だった。大人は面倒臭い生き物だけれど、その臭さを汲み取るものが子供であるのかもしれなかった。

 

そして土曜日――

午前十一時に新宿駅西口から出発した高速バスは、午後二時に中央道辰野に到着した。六歳のときに感じた長距離移動が一回り大きくなった逢坂りこには、とてもあっけなく思えた。たったの三時間――

「もう着いた。早いね」

「こんなものよ、東京から長野なんて」母は言った。

一回り昔から距離は変わらない。変わるのは、その距離を行くものの感覚だった。

「どうも、こんにちは。逢坂さんですか?」

「あ、はい、そうです」

「はじめまして、『月のもり』の者です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

そう言って「月のもり」の女主人は深々と頭を垂れた。会釈して、逢坂母娘は導かれるままに白い日産の車に乗り込んだ。車内には「BUMP OF CHICKEN」の楽曲が流れていた。

「今回はまたどういった目的で?」

わざわざ東京から母娘二人でこんな田舎にやって来たのだろうか――謙遜でも卑下でもなく、単なる話の種として。女主人はよく通る声で訊いた。

「昔、私の祖父が伊那谷に住んでいまして」母は事情を説明しようとした。

「今回はただの観光です」

しかし逢坂りこは「そんなことは今となっては関係がない」といわんばかりの言葉をついだ。

「蛍と花を見に」

それが純粋な部分で、今回の旅の目的だった。山脈や渓谷よりも、もっとささやかなものたちを〝もう一度〟確認するために――

「なるほど。それはまたちょうどいい時期に来られました」

逢坂りこにとってそのタイミングは千載一遇の偶然だったのだけれど、女主人は観光客相手の慣れた口調で言った。たとえどんなに辺鄙な町でも、日本一のゲンジボタルが見られる〝日本中心のゼロポイント〟であることに異存はなかった。

「それで、夕飯のほうはいつ頃になさいましょう? 蛍は夜八時頃がいちばんよく見られるそうなんですけれど、今はイベントで通行止めになっておりまして、車で送迎できる場所からまた多少歩くことになるかと思います。ですので、七時までには宿を出るようにと心づもりでお願いします」

「そうですね、じゃあ早めに五時半で」

「分かりました、五時半ですね」

女主人は、農業で培ったたくましい腕でハンドルを切った。

人工の建物が徐々に減り、田畑から森林へと風景が変わっても、アスファルトの車道は途切れなかった。やがて車は薪の積み重ねられた壁の間に停まった。こげ茶の木枠が白い漆喰の上を整然と交差する「月のもり」の宿は伊那谷最北端の奥深い山合にたたずんでいた。

カナダから来た同居人と二人で自給自足に近い形で経営していて、一日一組限定で「大自然のおもてなし」をしているそうだった。

ただその日はたまたま同居人が遊びに出かけていて、もんぺ姿の女主人一人とイヌにネコ、ウサギたちという童話のような歓迎を受けた。

「welcome」の戸をくぐった先に待ち構えていた魔除けの像とニンニクの籠を横目に靴を脱いで上がると、吹き抜けるような内部空間における開放感があった。そう広くも豪華でもない閉ざされた空間で、それでもそこには無数の精霊を詰め込めるだけの大らかさが存在していた。

風も水もつかめないけれど、その存在を疑う者がまだこの世にいるのだろうか――

もしいるのだとしたら、彼らはいったい何を食べ、何を考えて生活しているのだろうか――

逢坂りこの疑念は精霊の実在よりもむしろ、

「たばこ吸っても大丈夫ですか?」

と尋ねる母親のほうにあった。彼女はヘビースモーカーだった。逢坂りこはその臭さをどうしても汲み取ることができなかった。

「申し訳ありません。館内は禁煙ですが、外でしたら構いません。今、灰皿を用意いたしますので、ちょっとお待ちください」

「どうもすいません」

容姿云々、性格云々は全面的にゆるせていたし、決して母を憎んでいたわけではなかったし、孝行や恩返しもするつもりでいたし、人間は世界を汚さなければ生きていけないということは重々承知していたのだけれど、からだ全体が紙巻たばこを拒絶していたのだから、どうしようもなかった。

「正しい呼吸」をするために、深い部分では、母親を殺してしまいたいとさえ思っていた。

しかしこの物質的な世の中の半分は思い通りにはいかないのだということも、逢坂りこの理性は火を見るより明らかに、知ってしまっていたのだった。残念ながら。

【ネット小説】生彩 Ⅵ素晴らしく美しい藍

たとえばある物語の概要をあらかじめ知らされていたとして、人はそれでも、その物語に熱中することができるのだろうか。

「ほたる童謡公園」内の暗がりを歩きながら、逢坂りこの出した答えは、単純に「できる」であった。

物語や絵画や音楽や舞踊や建築や服飾や料理といったものの味わいは、死ぬまでに何百遍同じものを咀嚼しても変わらないはずだった。六歳の中頃に見た景色と十七歳の終わり頃に見た景色の素晴らしさは、そうそう変わらずにあるべきだった。

川となり海となり雲となり雨となり、また川となり続いてゆく――

そんな一筋の流れを見失ってしまうのは、あるいは淀んだ水のせいで発症する「健忘症」という病であるのかもしれなかった。

ただ、ほのかでささやかな光の調べを感じ取れるようになった――

逢坂りこの精神が角質を一枚脱ぎ捨て、成長して変わったのは、そのただ一点においてのみであった。

「あっちにもこっちにもほら、いっぱいいるわ」

母は年甲斐もなく興奮していた。そう短くない彼女の人生で、それほど多くの蛍を目の当たりにしたのははじめてであるらしかった。肉体の年長者が必ずしも精神の年長者であるという絶対性はなかった。

まるで示し合わせるように光る蛍の群れ……

そしてぶつからないように歩く人の行列……

スマートフォンには上手くうつせないこの蛍の乱舞を永久に心の中に留め続けることができるのなら……

逢坂りこはそれだけで、重い荷物を背負って生き続けるに足る意味や価値が、少なくともこの地球上には、いくらかあるような気がした。

「でもまたいつか、きっと忘れちゃうね」

「ええ?」

待ち合わせの辰野病院前の交差点まで歩く道すがら、前触れのないその言葉に母は耳を疑った。

「ううん、何でも。いつまでああゆう幻想的な風景がこの国に残されていくのかな、って少し気になって」

「そうねえ、誰かがそういう地道な努力を継続してくれるのを祈るしかないんじゃないかしら」

「うん……そうだね」

逢坂りこは母のときどき吐く臭い煙は嫌いだったけれど、しばしば吐く女言葉は好きだった。どちらが優れていてどちらが劣っていて、どちらが自由でどちらが窮屈であるかなどの差ではなく――

タカネツメクサがあってウルップソウがあってイワギキョウやミネズオウがあって、それらの蜜を吸うアサマシジミやクジャクチョウやミヤマシロチョウやタカネヒカゲがあるだけであって、言葉が死ぬことはすなわち何かが絶滅することと同義ではないかな、と以前、逢坂りこは母親に喋ったことがあった。母はそのとき、

「そんなことはないわ。人の使う言葉よりも世界はずっと広いもの」

なんてね、と冗談めかして慰めたけれど。

実際、「月へ帰ってしまう」のは『竹取物語』のかぐや姫一人きりだけではないのかもしれなかった。逢坂りこは、いつかあの素晴らしく美しい蛍たちもみんな、月へ帰ってしまうのではないか、と危惧していたのだ。それもかなり、深刻に。

だから確かめたかった。確証が欲しくて信州にやって来て、「月のもり」に泊まることにしたのだった。

 

「どうしてまた、こんな山奥で民宿をやろうと思ったんですか?」

カエルも鳴かない静かな夜だった。

山の湧き水を薪で沸かしたという風呂に母が浸かっている間、大きな窓に面したテーブルに対座して、山の湧き水をちびちびと飲みながら、ずっと気になっていたことを何の気なしに、逢坂りこは女主人に尋ねた。

「……息子がね、あまりに喘息がひどくて、東京から旦那と家族三人で引越してきたのがきっかけです」

女主人はノートを開いて、何かをメモ書きしていた。

「なるほど」よくある話だ、と逢坂りこは思った。

「それでもはじめは、伊那市のまだ開けた場所に住んでいましてね……当時小学生の息子はアレルギーだしからだも弱いから、せっかく田舎に引越してきたのに、よくいじめられて、友達もできなかったみたいで……」

「それはお気の毒……」

「ええ、それで息子が中学に入るのを機に、息子のからだのためにも、もともと夢だった農家民宿をやろうと、あちこち探し回って、たまたまここが――」女主人は振り返るように薄闇の窓の外を見て、告げた。

「金色に光って見えたんですね」

「へえ」

少し興味が増してきた逢坂りこは、仔細に尋ねた。

「それは、感覚的にそう感じたという意味ですか? それとも、実際にそういう光が目に見えて……?」

「……後日妹も連れて来てみたら、『お姉ちゃん、本当に金色に光ってるよ、ここに決めなよ』と言ってくれて、まあ……」

自分だけの独善的な感覚ではないということを説明した上で女主人は、

「それから十年、旦那とは別れ、息子はインドネシアの大学に留学し、それでもまだここで農家民宿を続けてこられていますから……」

運命の適正を具体的に述べた。

湧き水をゆっくりと腸に流し込む間を置いてから、逢坂りこはすべてを心得たように、こくと頷いた。

太平洋戦争中、あらゆる物の貧しい時代の助産婦のカゲが女主人と重なって見えた。生誕を手助けしていた女性が、今度はいったい何を手助けしようと念じて生まれ変わってきたのか――

それはまっすぐな遡上の夢の続きだった。

こういうひたむきな道も素敵だなと、回り道の好きな少女は思った。すると、風呂の戸の開く無粋な音がして、借りた浴衣を身にまとった母が濡れた髪を拭きながら現れた。

「お疲れ様でした」

「さ、りこ。気持ちいいわよ。あなたも入りなさい」

「うん」逢坂りこは席を立った。

「どうぞごゆっくり」

歯ブラシと浴衣とバスタオルを手に、洗面所へ行く。綿のシャツを上に引っ張り、紺のジーンズを下へ落とす。質素な白い下着を外すと、逢坂りこは樹齢三百年のヒノキの中に入り浸った。

なめらかな左腕を右手で撫で、きめの細かい右腕を左手で撫でた。

「いい土だ」と、我ながらに思った。

最低でもあと十年はいろいろな種を健やかに稔らせられる自信――そのときそれが、確信へと変わった。耕し方は知っている。焦る必要はない。

しかし与えられたものよりもさらに貴重で豊穣な結果を掴み取りたいから、逢坂りこは「学ぼう」と思った。

高校を卒業したら、田舎の大学へ行って、もっと詳細な農業を学ぼう――

精神の幼い両親のもとをしばらく離れる必要もあった。でなければ彼らは、樹齢三百年の木のありがたみも分からず、あっけなく伐り倒して著しく価値を下げて売り払ってしまうだろう。造物主から与えられた土地を管理するのは、自分自身しかいなかった。

十中八九の磨滅の中で、その一点だけは貫き通そうという覚悟――

それが文学やヨガをひっくるめて収斂をはじめた。ゆっくりと。ゆっくりと。

逢坂りこは「土」のありがたみをひしひしと感じながら、手で撫でるように全身をくまなく洗った。もっとも古くいちばん表面の垢がさらさら落ちる。湯は清瀧のように胸の谷間を流れていった。

 

翌日曜日――

朝六時、どこからともなく懐かしい音楽が響いてきて、逢坂母娘はそれを目覚めの合図とした。服を着替え終え、朝食の用意ができるまで逢坂りこは棚に置かれてあった『男の隠れ家』なる雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。家庭菜園の特集とある小説家のインタビュー記事を一通り読み終えて、ひじきご飯とおから、揚げ高野豆腐と朝採り野菜のサラダに味噌汁を腹に入れた。

内臓が優しさで充たされてゆく。

それから代金を支払って、荷物を整えて、八時も過ぎた頃に、彼女たちは民宿「月のもり」を出発した。最寄りの「唯一川の上にある」という信濃川島駅まで送り届けられ、逢坂母娘は女主人とさよならをした。

「お世話になりました」

「ありがとうございました。またいつか」

再三の礼をして、女主人がふたたび車に乗り込もうとした寸前、

「あ、そうだ」

と、逢坂りこは忘れ物を思い立った。

「何か?」女主人は怪訝に顔を向ける。

「お名前、何でしたっけ?」

「へ……? ああ、市川直美と申します」

「ああ、なるほど。ありがとうございました」

女主人は不思議な少女の不思議さを甘んじて受け止めて、キーを回した。逢坂りことその母も階段をぐるりと回ってホームへ降り立ち、一つしかない「辰野行き乗車口」の目印付近で一時間に一本のワンマン列車を待った。

人は他に、老婆と少女の二人しかいなかった。

そしてやがて、定刻通りに川の上に列車がやって来た。辰野の駅で乗り換えて、気づいたら逢坂母娘は「駒ヶ根」の駅にいた。

「これからどこに行くの?」予定を知らされていない母は尋ねた。

「雲の上」

謎かけのように娘は答えた。

「へえ、面白そうね」母は謎を謎のままに楽しめる人だった。

「うん、日本一の高低差があるロープウェイに乗るから。きっと面白いよ」

ここまでの計画はすべて順調だった。羅針盤も確認できた。これからの予定も順風満帆に進んでいくものと思われた。雲の上に待っているのはもはや、色とりどりの広大なお花畑だけだった。

「ああ、今日はロープウェイ運休してまして、このバスは手前の菅の台までしか行かないんですよ」

「え……運休?」

「そうなんですよ、たまたま。今週いっぱい、修理中らしいです。で、乗っていかれますか?」

「あ、いえ、結構です……」

そしてこれまた一時間に一本の路線バスは、尻込みする逢坂母娘を置いて乗客の一人もなく発っていった。計画はいともたやすく頓挫した。

「どうしようか? こんなところで」

母は明らかに田舎をさげすみながら、紙巻たばこに火をつけた。どうして愛する娘の前で、彼女は平然と臭い煙を吐くのだろう。逢坂りこはそれまで幾度、その紫煙にしかめ面をしたことだろう。たとえば本当にそれがきれいな紫色に見えたのだとしたら、多少の臭いも一生涯、耐え続けることができるのだろうか。いや――視覚よりも嗅覚のほうが画数が多い。そして到底、紫には見えない。

「山の麓まで、歩いていく」

「ええ?」

「それで、温泉に入る」

駅から日帰り天然温泉施設までは、四、五キロメートルくらいある。駅構内で手に入れた表「市街・竜東エリアMAP」に裏「駒ヶ根高原散策MAP」の色紙を見て知ったのだ。母は「バスを待つかタクシーで行くか」を主張したが、娘はかたくなに歩いていくことを選択した。

「これは、私の旅行だから」と。

いったい何が娘をそこまで駆り立てるのか分からぬまま、渋々と母はそれに付き従った。

総合文化センターを右に曲がり、明治亭本店を通り過ぎ、中央アルプス通りをひたすらにまっすぐ歩く。時折振り返り、母の歩みを気にしながら。途中、二軒の土産物屋に立ち寄り、信州そばと野沢菜漬けを購入した。

バスに乗って楽にいけば通り過ぎてしまっていたものだった。いや、そんなありきたりな土産物は他にいくらでも買えるのだろうし、日本全国どこにでも似たような風景があるのかもしれないけれど。ロープウェイで雲の上に昇るよりもずっとつまらなく、「北極周辺からやって来た寒冷植物の末裔たち」を拝むよりもとてつもなくくだらない旅路なのかもしれないけれど――

そうやって歩き疲れてから入る「早太郎温泉」のアルカリ性単純泉のいやしを堪能することはきっと、できはしなかっただろう。

 

「ああ……ごくらく」

 

露天風呂から中央アルプスの雄姿は眺められない。

その無念さを機に、「アルピニズム」にのめり込むことも、ましてやそば打ち職人を志すなんてこともない。ただ今回、こうして訪れた信州の光を己が目で存分に見て、湧き出る温泉に己がからだを浸し、汗と疲れを落とし、そうすることで願わくば、母がほんの少しでも美しさを取り戻してくれたのなら――

申し分はなかった。

温泉上がりに施設内で黒酢ドリンクを飲み、明治亭(中央アルプス登山口店)でサケとイクラの清流丼とざるそばを食べ、天然水をペットボトルに汲んでから、今度は母の望み通り路線バスに乗って帰った。ロープウェイが運休中のバスは、二人だけの貸切状態だった。

「ねえ、りこ?」

「うん?」

「何かしら収穫はあった?」

「うん、あった」

「そう。なら、よかったわ」

もはやそこに、名ばかりの「大人たち」に振り回されるかつての逢坂りこはいなかった。

思えば十二歳の頃から六年間、両親の思考や態度にひそかに疑問を抱き続け、そしてその答えを私的に探求し続けたのが功を奏したのかもしれなかった。それがようやく、「本来の逢坂りこ」としての一つの実を結んだのである。

その結実をもとに、彼女はこれから、たとえば資本を集め、温泉施設をつくり、それを経営・維持、あるいは発展させていかなければならない。恩を受け、恩を返す。息を吸い、息を吐く。その永劫にも思えるような繰り返し――

反吐が出る? 意味がない?

いや、きっと、

違う。

 

『先生、やっと見つけました。自分なりに、やわらかくなる方法』

『へえ、興味深いですね。よければ僕にも聞かせてください』

東京へ戻る高速バスの車中で、逢坂りこが米村先生に宛てたメッセージは、底抜けに単純な提言だった。

『テマヒマかけることです』

『なるほど。深いですね』

もう、窓の外は暗かった。

自然は消え、人工のライトが増えてきたかのように見えた。

けれど深いところでは、人間も大自然の一部であった。すべてはどこかで、たとえ一部分だけだったとしても、すでに繋がり合っていた。触れ合っていた。

強く触れ合いたくて、その想いが剛情なあまりに、ときにぶつかり合っていただけだった。隣の席には面倒臭い母親が眠っていて、この国にはうっとうしいほどの恵みが何万年も昔から存在していた。

それなのに――

『その深さをこれから一生かけて、確かめていこうかと考えています』

『はい。逢坂さんの探究が成功することを、先生は祈っています』

トウダイ、もとくらし。

マリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレスト山の頂点の高さよりも深いといわれている。むろん生身の人間がそこに到達することはできないけれど、クラゲや白いヒラメみたいな生物なら、どうやらそこでも生息できるようだ。

『ありがとうございます。信じていてください』

最期に逢坂りこが掴み取る「土」の色を、彼女はまだ知らなかった。それはさも、当たり前のように。