彼女たちはそれから、月並で豊かな日本語で会話を交わすようになり、自ずとその輪も広がっていった。何だかクラス全体が和やかになったみたいだ、と逢坂りこには感じられた。
二年一組二十七人の女子全員が、それなりに打ち解け合って、ああねこうねと言葉を交わすようになったのだ。厳冬の二月に入って、ようやく――
しかし諸行は無常。季節はめぐり、三年二組になった逢坂りこは、三年一組の染井麻紀と高峰結菜と離ればなれとなった。油彩画は水彩画に回帰した。けれどそれは以前よりもまして精妙となったし、もはや心残りはさしてなかった。
また一から築く人間関係はちょっぴり憂鬱で、大学受験の勉強もしなくちゃで、しばらく逢坂りこは心の窓を閉じることにした。なにぶん外の気候は穏やかだから、日に数回換気するだけで、特に問題はなかったのだ。それに――
『先生は、どうしてヨガに目覚めたのですか?』
週に一度のヨガ教室は変わらず続けていて、しかも母が「家計の問題」で辞めることになって、四月から逢坂りこが一人で米村先生のもとに通うようになった。むろん個人授業ではないけれど、彼女は機を見計らって米村先生のメールアドレスを聞き出すことに成功したのだった。建前は「ヨガの哲学をもっと深く知りたい」であった。
『きっかけは、大学生のときにヒマラヤ山脈に登ったことです』
ショートメッセージはすぐに返ってきた。情報技術隆盛の時代だった。文面のやり取りが「スマートフォン」という多機能携帯電話の画面の中で手軽にできた。
『ヒマラヤって、エベレスト?』
『そうです。けど、僕は遠目からエベレストを眺められる場所まで行っただけです』
逢坂りこは信州でかつて見た雄大な山脈のイメージを右脳に浮かべながら、右親指で素早く文章を打ち込んでいった。
『あ、わかりました。その光景があまりにきれいだったもんで、すっかりヒマラヤにはまって、そこでヨガにも魅せられた、とか?』
『いいえ、その逆です』
『逆?』
『はい、天気が悪くて、目的のエベレストがほとんど見えなかったんです。せっかく七時間もかけて行ったのに』
『それはお気の毒様です』
『いえいえ。それで悔しくて、いつか必ずもう一度ヒマラヤに行こう、といろいろ勉強していたら、ヨガにばったり出くわした、という次第です』
『ばったり?』
『ええ、僕の半生はばったりにあふれています』
逢坂りこはその文章を一文字ずつもいで、ミキサーにかけて飲み干してから、言葉をついだ。夜はすっかり深まっていて、米村先生はもう眠くてメッセージのやり取りを早々に切り上げたいのかもしれないけれど、そんなことは彼女にとってはお構いなしであった。
『なるほど。それで、晴れたエベレストはもうご覧になれましたか?』
その一文をついだあと、しばらく返信は送られてこなかった。じっと液晶パネルが発する光を直視しながら、逢坂りこはため息をついた。
先生に教えてもらった「深くゆったりした呼吸」が、先生のせいでできなくなったような気がした。親子ほども年の離れた男性に抱くこの感情は、ヨガの倫理や哲学に背いているのではないか、と不安になった。まだ彼女はそれらについて教えてもらっていないけれど、きっと。
何より米村先生は、妻帯者であった。どういうわけか子供はいないそうだが、すでに「ばったり」出会って結ばれた配偶者がいたのだ。そんな私的な情報は知っていた。
「我ながら……」
情けない、と逢坂りこは思った。
情で満たされた浅いプールの底に沈むように、そして彼女は眠りに落ちた――
気づくと、意識は水の中にいた。
白い光の穴に向かって、無数の泡が吸い込まれてゆく。ゆらめいている。水は絶え間なく、ゆらめいている。
そして「私」は、そこにいた。
青のリボンの白いセーラー服を着た「私」が浮いているのを、逢坂りこの意識は観察していた。逢坂りこは、ただ死体のように漂う「私」が少し、不憫に思えた。まだ全裸でいたなら、下半身が魚だったなら、少しは絵になったかもしれないのに。
しかしセーラー服の「私」がこちらに顔を向けると、逢坂りこは気づいてしまった。「私」の鼻から湧き出る小さな泡のせいで、自分がまるで息をしていないということを――
「はあっ!」
電気の点いたまま、スマートフォンを握ったまま、ベッドの上でうつぶせに寝ていた。
『残念ながら、まだ見れていません』
そしてその八分後――
『今日はもう遅いので、先に眠りに就きます。また明日。おやすみなさい』
米村先生という男は、どこまでも律儀で、優しかった。けれど逢坂りこには、それがまるで「娘」に対する愛情だと、分かりきっていた。
「……おやすみなさい」
リモコンのボタンが押され、電気が消えた。現実にはただの暗がりしかなかったから、すぐにカラフルな夢を見たかったのだけども、目が冴えてなかなか眠れず、さらに目覚めたときには夢を見た憶えなど丸きりなかった。そんな殺生なヨが明けても明けなくても、やるべきことがある限り、日常は続くのだろう。
逢坂りこの場合は目下、受験勉強だった――
この頃、教室の空気が天候に反して、ピンと張りつめていた。そこは「頑張れば一流大学」に合格する程度の進学校で、「頑張った者すなわち勝者」だった。まだ結果の見えない時期だからこそ、教師たちは目に見える「努力」を最高の美徳とした。
自習室がすぐに満員となった。教室の後ろの棚には、世界思想社教学社発行の「大学入試シリーズ」通称「赤本」がずらりと並べられていた。
あるいはそういった現象は、一年も二年も前からその高校の「常識」だったのかもしれなかった。けれど逢坂りこがそれらを認識し出したのが、三年生にもなってようやく土砂降りの六月だった、というだけのことで――
ため息はつきそうになかった。
それにもまして、「進路」が定まっていなかった。就職する気も専門学校を行く気もいわんや嫁ぐ気もないから、大学に進学する大通りしかないように思われたけれど、それでも針は東に西に、国立に私立に、文学に法学にと、ゆれにゆれて、相談する先は毎度、学校のではなくて、ヨガの先生――
『いっそ私もヨガ講師になろうかな、なんて』
注意して、また受験勉強のほうへ戻してほしい。そんな逃げ口上だった。
『本気でなろうと思えば、明日からでもなれますよ』
「え?」そんな返答を求めていたのではなかった。
『いや、それは……』
『大げさですが。ヨガ講師養成講座に参加し、協会から認定書を取得すれば、すぐになれますよ、本当に』
「うーん」
否定してほしかったのに。
あなたはまだ若いのだから、アスファルトで塗り固められた、信号や街灯つきのスムーズな道を歩くべきですと、優しく諭してほしかったのに。
ヨガ講師の道は逢坂りこにとっていささか、いやかなり、非理性的で未舗装な脇道だった。
『いろいろ、自分なりに考えてみます。ありがとうございました』
スマートフォンの画面を暗転させると、どこかでシャッターを切られたような音がした。我がままな自分の姿を、きっと神様は撮影したのだろう。逢坂りこはそんな自分に腹が立ったけれど、いっそ腹の虫に心ゆくまで羽ばたかせてやろうと、
「お母さん、信州に行きたい」
と言った。
「どうしたの、突然?」
「憶えてる? ひいじいさんのこと」
風呂上がりで髪も生乾きの母は、呆気にとられた。むしろ当時幼かったのは娘のほうで、あれ以来「ひいじいさん」が話題に上ったことなど一度もなかったのに。
「もちろん憶えているわ。でも、なんで今頃?」
「心配しないで。きわめて冷静に、将来のことを考えた上で、また行きたくなったの」
「そうなの……」
冷静に突飛な要求をする娘に少し不安を覚えながらも、母はその要求を呑むしかなかった。逢坂りこが自らああしたいこうしたいと訴えることはそう多くない。週末の予定は特にない。梅雨は明けていないが、天気予報も晴れマーク。何よりその白目の青みがかった透明感が、年長者の拒否権をあっけなく奪い去ってしまった。
「しかたないわね……ただし」
これだけは事前に伝えておかなくてはいけない。
「信州のおじいちゃんはもう、この世にはいないのよ」
小学校を卒業する前にはすでに亡くなっていたのだけど、娘に伝えるまでもない些末なことに思えていた。何しろ彼は隠居していたし、娘とはたったの一度きりしか会っていなかった。葬儀も内々でおこなわれた。てっきり娘は「伊那谷のひいじいさん」の存在を忘れているのだと思っていたし、実際、忘れきっていた。
「うん……それでも、ただあそこにもう一度行きたい」
この子は……と、母は畏れた。山を拝むように、海の底を覗くように。
「行こうか、土曜日から一泊二日で」
「うん」
何も見えないままに、まずは「行くこと」だけを決めた。
それから逢坂りこはインターネットを利用して、自分自身の判断によって、簡素な旅行の手配をすべて一人でやった。本音は独りきりで行きたかったのだけど、実際的な「未成年」には「保護者」が付き添うべきだとされた。そんな時代で未熟な彼女にでき得ることといえば、主に「検索」と「予約」であった。
それでも父は置いておくことにした。「留守をお願い」と頼んだら、「どんと任せろ」と応えた。父も曲がりなりに、大人だった。大人は面倒臭い生き物だけれど、その臭さを汲み取るものが子供であるのかもしれなかった。
そして土曜日――
午前十一時に新宿駅西口から出発した高速バスは、午後二時に中央道辰野に到着した。六歳のときに感じた長距離移動が一回り大きくなった逢坂りこには、とてもあっけなく思えた。たったの三時間――
「もう着いた。早いね」
「こんなものよ、東京から長野なんて」母は言った。
一回り昔から距離は変わらない。変わるのは、その距離を行くものの感覚だった。
「どうも、こんにちは。逢坂さんですか?」
「あ、はい、そうです」
「はじめまして、『月のもり』の者です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
そう言って「月のもり」の女主人は深々と頭を垂れた。会釈して、逢坂母娘は導かれるままに白い日産の車に乗り込んだ。車内には「BUMP OF CHICKEN」の楽曲が流れていた。
「今回はまたどういった目的で?」
わざわざ東京から母娘二人でこんな田舎にやって来たのだろうか――謙遜でも卑下でもなく、単なる話の種として。女主人はよく通る声で訊いた。
「昔、私の祖父が伊那谷に住んでいまして」母は事情を説明しようとした。
「今回はただの観光です」
しかし逢坂りこは「そんなことは今となっては関係がない」といわんばかりの言葉をついだ。
「蛍と花を見に」
それが純粋な部分で、今回の旅の目的だった。山脈や渓谷よりも、もっとささやかなものたちを〝もう一度〟確認するために――
「なるほど。それはまたちょうどいい時期に来られました」
逢坂りこにとってそのタイミングは千載一遇の偶然だったのだけれど、女主人は観光客相手の慣れた口調で言った。たとえどんなに辺鄙な町でも、日本一のゲンジボタルが見られる〝日本中心のゼロポイント〟であることに異存はなかった。
「それで、夕飯のほうはいつ頃になさいましょう? 蛍は夜八時頃がいちばんよく見られるそうなんですけれど、今はイベントで通行止めになっておりまして、車で送迎できる場所からまた多少歩くことになるかと思います。ですので、七時までには宿を出るようにと心づもりでお願いします」
「そうですね、じゃあ早めに五時半で」
「分かりました、五時半ですね」
女主人は、農業で培ったたくましい腕でハンドルを切った。
人工の建物が徐々に減り、田畑から森林へと風景が変わっても、アスファルトの車道は途切れなかった。やがて車は薪の積み重ねられた壁の間に停まった。こげ茶の木枠が白い漆喰の上を整然と交差する「月のもり」の宿は伊那谷最北端の奥深い山合にたたずんでいた。
カナダから来た同居人と二人で自給自足に近い形で経営していて、一日一組限定で「大自然のおもてなし」をしているそうだった。
ただその日はたまたま同居人が遊びに出かけていて、もんぺ姿の女主人一人とイヌにネコ、ウサギたちという童話のような歓迎を受けた。
「welcome」の戸をくぐった先に待ち構えていた魔除けの像とニンニクの籠を横目に靴を脱いで上がると、吹き抜けるような内部空間における開放感があった。そう広くも豪華でもない閉ざされた空間で、それでもそこには無数の精霊を詰め込めるだけの大らかさが存在していた。
風も水もつかめないけれど、その存在を疑う者がまだこの世にいるのだろうか――
もしいるのだとしたら、彼らはいったい何を食べ、何を考えて生活しているのだろうか――
逢坂りこの疑念は精霊の実在よりもむしろ、
「たばこ吸っても大丈夫ですか?」
と尋ねる母親のほうにあった。彼女はヘビースモーカーだった。逢坂りこはその臭さをどうしても汲み取ることができなかった。
「申し訳ありません。館内は禁煙ですが、外でしたら構いません。今、灰皿を用意いたしますので、ちょっとお待ちください」
「どうもすいません」
容姿云々、性格云々は全面的にゆるせていたし、決して母を憎んでいたわけではなかったし、孝行や恩返しもするつもりでいたし、人間は世界を汚さなければ生きていけないということは重々承知していたのだけれど、からだ全体が紙巻たばこを拒絶していたのだから、どうしようもなかった。
「正しい呼吸」をするために、深い部分では、母親を殺してしまいたいとさえ思っていた。
しかしこの物質的な世の中の半分は思い通りにはいかないのだということも、逢坂りこの理性は火を見るより明らかに、知ってしまっていたのだった。残念ながら。