【ネット小説】生彩 Ⅵ素晴らしく美しい藍

素晴らしく美しい藍

たとえばある物語の概要をあらかじめ知らされていたとして、人はそれでも、その物語に熱中することができるのだろうか。

「ほたる童謡公園」内の暗がりを歩きながら、逢坂りこの出した答えは、単純に「できる」であった。

物語や絵画や音楽や舞踊や建築や服飾や料理といったものの味わいは、死ぬまでに何百遍同じものを咀嚼しても変わらないはずだった。六歳の中頃に見た景色と十七歳の終わり頃に見た景色の素晴らしさは、そうそう変わらずにあるべきだった。

川となり海となり雲となり雨となり、また川となり続いてゆく――

そんな一筋の流れを見失ってしまうのは、あるいは淀んだ水のせいで発症する「健忘症」という病であるのかもしれなかった。

ただ、ほのかでささやかな光の調べを感じ取れるようになった――

逢坂りこの精神が角質を一枚脱ぎ捨て、成長して変わったのは、そのただ一点においてのみであった。

「あっちにもこっちにもほら、いっぱいいるわ」

母は年甲斐もなく興奮していた。そう短くない彼女の人生で、それほど多くの蛍を目の当たりにしたのははじめてであるらしかった。肉体の年長者が必ずしも精神の年長者であるという絶対性はなかった。

まるで示し合わせるように光る蛍の群れ……

そしてぶつからないように歩く人の行列……

スマートフォンには上手くうつせないこの蛍の乱舞を永久に心の中に留め続けることができるのなら……

逢坂りこはそれだけで、重い荷物を背負って生き続けるに足る意味や価値が、少なくともこの地球上には、いくらかあるような気がした。

「でもまたいつか、きっと忘れちゃうね」

「ええ?」

待ち合わせの辰野病院前の交差点まで歩く道すがら、前触れのないその言葉に母は耳を疑った。

「ううん、何でも。いつまでああゆう幻想的な風景がこの国に残されていくのかな、って少し気になって」

「そうねえ、誰かがそういう地道な努力を継続してくれるのを祈るしかないんじゃないかしら」

「うん……そうだね」

逢坂りこは母のときどき吐く臭い煙は嫌いだったけれど、しばしば吐く女言葉は好きだった。どちらが優れていてどちらが劣っていて、どちらが自由でどちらが窮屈であるかなどの差ではなく――

タカネツメクサがあってウルップソウがあってイワギキョウやミネズオウがあって、それらの蜜を吸うアサマシジミやクジャクチョウやミヤマシロチョウやタカネヒカゲがあるだけであって、言葉が死ぬことはすなわち何かが絶滅することと同義ではないかな、と以前、逢坂りこは母親に喋ったことがあった。母はそのとき、

「そんなことはないわ。人の使う言葉よりも世界はずっと広いもの」

なんてね、と冗談めかして慰めたけれど。

実際、「月へ帰ってしまう」のは『竹取物語』のかぐや姫一人きりだけではないのかもしれなかった。逢坂りこは、いつかあの素晴らしく美しい蛍たちもみんな、月へ帰ってしまうのではないか、と危惧していたのだ。それもかなり、深刻に。

だから確かめたかった。確証が欲しくて信州にやって来て、「月のもり」に泊まることにしたのだった。

 

「どうしてまた、こんな山奥で民宿をやろうと思ったんですか?」

カエルも鳴かない静かな夜だった。

山の湧き水を薪で沸かしたという風呂に母が浸かっている間、大きな窓に面したテーブルに対座して、山の湧き水をちびちびと飲みながら、ずっと気になっていたことを何の気なしに、逢坂りこは女主人に尋ねた。

「……息子がね、あまりに喘息がひどくて、東京から旦那と家族三人で引越してきたのがきっかけです」

女主人はノートを開いて、何かをメモ書きしていた。

「なるほど」よくある話だ、と逢坂りこは思った。

「それでもはじめは、伊那市のまだ開けた場所に住んでいましてね……当時小学生の息子はアレルギーだしからだも弱いから、せっかく田舎に引越してきたのに、よくいじめられて、友達もできなかったみたいで……」

「それはお気の毒……」

「ええ、それで息子が中学に入るのを機に、息子のからだのためにも、もともと夢だった農家民宿をやろうと、あちこち探し回って、たまたまここが――」女主人は振り返るように薄闇の窓の外を見て、告げた。

「金色に光って見えたんですね」

「へえ」

少し興味が増してきた逢坂りこは、仔細に尋ねた。

「それは、感覚的にそう感じたという意味ですか? それとも、実際にそういう光が目に見えて……?」

「……後日妹も連れて来てみたら、『お姉ちゃん、本当に金色に光ってるよ、ここに決めなよ』と言ってくれて、まあ……」

自分だけの独善的な感覚ではないということを説明した上で女主人は、

「それから十年、旦那とは別れ、息子はインドネシアの大学に留学し、それでもまだここで農家民宿を続けてこられていますから……」

運命の適正を具体的に述べた。

湧き水をゆっくりと腸に流し込む間を置いてから、逢坂りこはすべてを心得たように、こくと頷いた。

太平洋戦争中、あらゆる物の貧しい時代の助産婦のカゲが女主人と重なって見えた。生誕を手助けしていた女性が、今度はいったい何を手助けしようと念じて生まれ変わってきたのか――

それはまっすぐな遡上の夢の続きだった。

こういうひたむきな道も素敵だなと、回り道の好きな少女は思った。すると、風呂の戸の開く無粋な音がして、借りた浴衣を身にまとった母が濡れた髪を拭きながら現れた。

「お疲れ様でした」

「さ、りこ。気持ちいいわよ。あなたも入りなさい」

「うん」逢坂りこは席を立った。

「どうぞごゆっくり」

歯ブラシと浴衣とバスタオルを手に、洗面所へ行く。綿のシャツを上に引っ張り、紺のジーンズを下へ落とす。質素な白い下着を外すと、逢坂りこは樹齢三百年のヒノキの中に入り浸った。

なめらかな左腕を右手で撫で、きめの細かい右腕を左手で撫でた。

「いい土だ」と、我ながらに思った。

最低でもあと十年はいろいろな種を健やかに稔らせられる自信――そのときそれが、確信へと変わった。耕し方は知っている。焦る必要はない。

しかし与えられたものよりもさらに貴重で豊穣な結果を掴み取りたいから、逢坂りこは「学ぼう」と思った。

高校を卒業したら、田舎の大学へ行って、もっと詳細な農業を学ぼう――

精神の幼い両親のもとをしばらく離れる必要もあった。でなければ彼らは、樹齢三百年の木のありがたみも分からず、あっけなく伐り倒して著しく価値を下げて売り払ってしまうだろう。造物主から与えられた土地を管理するのは、自分自身しかいなかった。

十中八九の磨滅の中で、その一点だけは貫き通そうという覚悟――

それが文学やヨガをひっくるめて収斂をはじめた。ゆっくりと。ゆっくりと。

逢坂りこは「土」のありがたみをひしひしと感じながら、手で撫でるように全身をくまなく洗った。もっとも古くいちばん表面の垢がさらさら落ちる。湯は清瀧のように胸の谷間を流れていった。

 

翌日曜日――

朝六時、どこからともなく懐かしい音楽が響いてきて、逢坂母娘はそれを目覚めの合図とした。服を着替え終え、朝食の用意ができるまで逢坂りこは棚に置かれてあった『男の隠れ家』なる雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。家庭菜園の特集とある小説家のインタビュー記事を一通り読み終えて、ひじきご飯とおから、揚げ高野豆腐と朝採り野菜のサラダに味噌汁を腹に入れた。

内臓が優しさで充たされてゆく。

それから代金を支払って、荷物を整えて、八時も過ぎた頃に、彼女たちは民宿「月のもり」を出発した。最寄りの「唯一川の上にある」という信濃川島駅まで送り届けられ、逢坂母娘は女主人とさよならをした。

「お世話になりました」

「ありがとうございました。またいつか」

再三の礼をして、女主人がふたたび車に乗り込もうとした寸前、

「あ、そうだ」

と、逢坂りこは忘れ物を思い立った。

「何か?」女主人は怪訝に顔を向ける。

「お名前、何でしたっけ?」

「へ……? ああ、市川直美と申します」

「ああ、なるほど。ありがとうございました」

女主人は不思議な少女の不思議さを甘んじて受け止めて、キーを回した。逢坂りことその母も階段をぐるりと回ってホームへ降り立ち、一つしかない「辰野行き乗車口」の目印付近で一時間に一本のワンマン列車を待った。

人は他に、老婆と少女の二人しかいなかった。

そしてやがて、定刻通りに川の上に列車がやって来た。辰野の駅で乗り換えて、気づいたら逢坂母娘は「駒ヶ根」の駅にいた。

「これからどこに行くの?」予定を知らされていない母は尋ねた。

「雲の上」

謎かけのように娘は答えた。

「へえ、面白そうね」母は謎を謎のままに楽しめる人だった。

「うん、日本一の高低差があるロープウェイに乗るから。きっと面白いよ」

ここまでの計画はすべて順調だった。羅針盤も確認できた。これからの予定も順風満帆に進んでいくものと思われた。雲の上に待っているのはもはや、色とりどりの広大なお花畑だけだった。

「ああ、今日はロープウェイ運休してまして、このバスは手前の菅の台までしか行かないんですよ」

「え……運休?」

「そうなんですよ、たまたま。今週いっぱい、修理中らしいです。で、乗っていかれますか?」

「あ、いえ、結構です……」

そしてこれまた一時間に一本の路線バスは、尻込みする逢坂母娘を置いて乗客の一人もなく発っていった。計画はいともたやすく頓挫した。

「どうしようか? こんなところで」

母は明らかに田舎をさげすみながら、紙巻たばこに火をつけた。どうして愛する娘の前で、彼女は平然と臭い煙を吐くのだろう。逢坂りこはそれまで幾度、その紫煙にしかめ面をしたことだろう。たとえば本当にそれがきれいな紫色に見えたのだとしたら、多少の臭いも一生涯、耐え続けることができるのだろうか。いや――視覚よりも嗅覚のほうが画数が多い。そして到底、紫には見えない。

「山の麓まで、歩いていく」

「ええ?」

「それで、温泉に入る」

駅から日帰り天然温泉施設までは、四、五キロメートルくらいある。駅構内で手に入れた表「市街・竜東エリアMAP」に裏「駒ヶ根高原散策MAP」の色紙を見て知ったのだ。母は「バスを待つかタクシーで行くか」を主張したが、娘はかたくなに歩いていくことを選択した。

「これは、私の旅行だから」と。

いったい何が娘をそこまで駆り立てるのか分からぬまま、渋々と母はそれに付き従った。

総合文化センターを右に曲がり、明治亭本店を通り過ぎ、中央アルプス通りをひたすらにまっすぐ歩く。時折振り返り、母の歩みを気にしながら。途中、二軒の土産物屋に立ち寄り、信州そばと野沢菜漬けを購入した。

バスに乗って楽にいけば通り過ぎてしまっていたものだった。いや、そんなありきたりな土産物は他にいくらでも買えるのだろうし、日本全国どこにでも似たような風景があるのかもしれないけれど。ロープウェイで雲の上に昇るよりもずっとつまらなく、「北極周辺からやって来た寒冷植物の末裔たち」を拝むよりもとてつもなくくだらない旅路なのかもしれないけれど――

そうやって歩き疲れてから入る「早太郎温泉」のアルカリ性単純泉のいやしを堪能することはきっと、できはしなかっただろう。

 

「ああ……ごくらく」

 

露天風呂から中央アルプスの雄姿は眺められない。

その無念さを機に、「アルピニズム」にのめり込むことも、ましてやそば打ち職人を志すなんてこともない。ただ今回、こうして訪れた信州の光を己が目で存分に見て、湧き出る温泉に己がからだを浸し、汗と疲れを落とし、そうすることで願わくば、母がほんの少しでも美しさを取り戻してくれたのなら――

申し分はなかった。

温泉上がりに施設内で黒酢ドリンクを飲み、明治亭(中央アルプス登山口店)でサケとイクラの清流丼とざるそばを食べ、天然水をペットボトルに汲んでから、今度は母の望み通り路線バスに乗って帰った。ロープウェイが運休中のバスは、二人だけの貸切状態だった。

「ねえ、りこ?」

「うん?」

「何かしら収穫はあった?」

「うん、あった」

「そう。なら、よかったわ」

もはやそこに、名ばかりの「大人たち」に振り回されるかつての逢坂りこはいなかった。

思えば十二歳の頃から六年間、両親の思考や態度にひそかに疑問を抱き続け、そしてその答えを私的に探求し続けたのが功を奏したのかもしれなかった。それがようやく、「本来の逢坂りこ」としての一つの実を結んだのである。

その結実をもとに、彼女はこれから、たとえば資本を集め、温泉施設をつくり、それを経営・維持、あるいは発展させていかなければならない。恩を受け、恩を返す。息を吸い、息を吐く。その永劫にも思えるような繰り返し――

反吐が出る? 意味がない?

いや、きっと、

違う。

 

『先生、やっと見つけました。自分なりに、やわらかくなる方法』

『へえ、興味深いですね。よければ僕にも聞かせてください』

東京へ戻る高速バスの車中で、逢坂りこが米村先生に宛てたメッセージは、底抜けに単純な提言だった。

『テマヒマかけることです』

『なるほど。深いですね』

もう、窓の外は暗かった。

自然は消え、人工のライトが増えてきたかのように見えた。

けれど深いところでは、人間も大自然の一部であった。すべてはどこかで、たとえ一部分だけだったとしても、すでに繋がり合っていた。触れ合っていた。

強く触れ合いたくて、その想いが剛情なあまりに、ときにぶつかり合っていただけだった。隣の席には面倒臭い母親が眠っていて、この国にはうっとうしいほどの恵みが何万年も昔から存在していた。

それなのに――

『その深さをこれから一生かけて、確かめていこうかと考えています』

『はい。逢坂さんの探究が成功することを、先生は祈っています』

トウダイ、もとくらし。

マリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレスト山の頂点の高さよりも深いといわれている。むろん生身の人間がそこに到達することはできないけれど、クラゲや白いヒラメみたいな生物なら、どうやらそこでも生息できるようだ。

『ありがとうございます。信じていてください』

最期に逢坂りこが掴み取る「土」の色を、彼女はまだ知らなかった。それはさも、当たり前のように。

 

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