○お江戸日本橋亭・演芸場
その音と共に、幕が開く。
メクリには「またね」と名が記されてある。
囃子に合わせて、高座に上がるまたね。
またね「どうも初めましての方もご贔屓の方も、本日はお忙しい中足をお運びくださって、誠にありがとうございます。前座を務めさせて頂きます、香田またねと申します」
拍手。
またね「それでは、ふつつかではございますが、本日は特別にこの場を借りて、不肖、香田またねの身に実際に起こった事件を、修羅場を交えてお伝えさせていただきたく願います」
張扇をパン! と叩く――
○回想・洋風レストラン・内(夜)
洒落た店内で、名護がぽつんと一人、待っている。
またねの声「時は平成二十五年九月三十日の夜。ところは東京下町、創作料理だかなんだかの小粋な料理店」
ウェイターがやって来る。
ウェイター「申し訳ございませんお客様、そろそろ閉店のお時間でございます」
名護「そうですか。どうぞ、お気になさらず」
ウェイター「いえ、そういう意味で申し上げているのではありません」
名護「わかっています。大人しくしていますから、もう少し待たせてほしいんです」
ウェイター「そう申されましても……」
またねの声「その男、全く大人しくない。まるで子供。話が通じません」
名護「約束なんです! 待たせてください!」
またねの声「と、何やらのっぴきならない事情を抱えているよう」
ウェイター「仕方ありませんね」
またねの声「と、情けをかける世の中じゃあございません」
ウェイター「お店の外でお待ちください」
と、名護の腕を持ち上げ、連れ出していく。
名護「あ~れ~」
○お江戸日本橋亭・演芸場
高齢の観客たち、笑う。
またね「おやめくださいお給仕様、となよなよした男。昔と比べ、契りなど軽くやわくなった現代、一体何をそんなに遅くまで待っていたのでしょうか」
張扇を叩く。
○回想・洋風レストラン・外(夜)
雨が降っている。
軒先で、肌寒そうに待っている名護。
またねの声「と、そこへ来たるは――」
雨に濡れながら、駆けて来るまたね、
またねの声「どじでのろまな女芸人」
雨宿りするように、軒先の下に入る。
またね「(息を弾ませ)名護くん、ごめん」
名護「もう聞き飽きた、そのセリフ」
またね「そう……だよね、はは……」
名護「なぁ、未絵?」
またね「うん?」
名護「俺たちホント、長いこと、いいかげんに生きてきたよな」
またね「いいかげんってことは……」
名護「楽しかった。いつまでも青春、って感じで」
またね「うん、それは私も」
名護「でも、もうつけよう、けじめ(リングケースを取り出し)」
またね「へ?」
名護「ん(受け取れ、と仕草)」
またね思わず受け取り、箱を開ける。
指輪――
またね「あ……」
名護「俺たちもう、結婚しちまおう」
またね「……!?」
またねの声「結婚の契り、それは人生でもっとも幸せな宣言のはず。ですが、ですが――」
またね「できない……」
名護「(覚悟していた返事で)……」
またね「できないよ、私……もういい歳だけど、もしかしたらこれが、いまこの瞬間が最後のチャンスかもしれないけど……でも、だけど……できないよ、結婚」
またねの声「芸のためなら、たとえ女でも男を泣かします」
名護、涙をこらえるように口を押さえている。
降り注ぐ雨。
パン!
○回想・荒川べり
またねを平手打ちしたまどか。
またね「まどか……ちゃん?」
またねの声「そんな馬鹿な女の目を覚まさせてくれるは、いつも決まって、勝手知ったる仲間たち」
まどか「まどかは……ずっと、我慢してました。由基人くんのこと」
山野もいて、ひどく動揺している。
まどか「いろんなこと、貪欲に手に入れてきたけど、ゆいいつ、由基人くんだけは奪えませんでした」
またね「……」
まどか「だって、由基人くんはいつだって、未絵さんだけを、見てたから」
またね「……でも、私は……」
山野「その日、九月三十日、何の日だったかお前わかってんのかよ」
またね「え……」
山野「お前と由基人の付き合って十年の記念日だろ」
まどか「それなのに、何やってんですかもぉ!」
またね「私……」
まどか「人を振り回すだけ振り回して……未絵さんは人として最低です!」
またね「……(反省)」
まどか「でも。まだ、きっと取り返しはつきます」
またね「?」
まどか「未絵さんと由基人くんの絆はそんなやわなものじゃないはずだから……」
山野「切っても切れない腐れ縁!」
またね「うん……」
まどか「もぉ、わかったら早く行ってください!」
またね「行くって、どこに…?」
山野「由基人のもとに決まってんだろーよ。どうせあいつのことだ、家にひきこもって一人で泣いてらぁ」
またね「うん、そうだね……」
山野、まどかの顔を見て――
またねの声「持つべきものは友。このときほど、それを思い知ったことはございません」
またね「ありがと! 私、行ってくる!」
と、駆け出す。その走る姿――
またねの声「後先考えず、フッた恋人のもとへと脱兎のごとく駆けてゆきます。親譲りの無鉄砲、そうして三十余年、山あり谷あり何とか生き抜いて参りました」
歯を食い縛って、一生懸命で。
○回想・名護のアパート・外
またね、ドアをどんどん叩いている。
またねの声「しかしこの世には、どんなにあがけど、どれほどもがけど、どうにもならぬ事情がありまして――」
またね「名護くん、私! いたら返事して!」
ふいにドアが開くと、そこには幽霊のように名護が立っていた。
名護「……(生気がない)」
そしてその手には包丁が握られている。
またね「名護、くん……?」
○お江戸日本橋亭・演芸場
息を呑む高齢の観客たち。
またね「覆水盆に返らず。一生懸命水をすくおうと、すくえるのは泥水だけ。やがて絶望した男は私の目の前で、手にした刃を自らの首元に向けました」
張扇を包丁に見立て、
またね「『どうか……どうか俺を恨まないでくれ。あの世でお前が幸せになるように祈っているから。これが俺の、お前への最後のワガママ……』」
その張扇を釈台に叩きつける。
○回想・名護のアパート・内
包丁を手にした名護に、
またね「だめ!!」
と、腕をひっつかみ、
名護「放せ!!」
またね「だめだったら!!」
名護「放せって!!」
揉み合うように、部屋の中へ――
またね「絶対に……絶対に、死なせない!!」
包丁を名護の手から力ずくで放り落とさせ、倒れこむ。
名護「……未絵……?」
覆いかぶさったまたね、泣きじゃくっている。
またね「私……私ね、不器用だし馬鹿だし、どうしたら人が幸せになれるのかなんて、わからないけど……だけど、結婚しなくても、売れなくても、幸せになってほしいよ……私も名護くんも、みんな、みんなこの世で幸せになりたいんだよぉ……」
名護「……」
またね「私たち、頑張るから……一生懸命、頑張って生きるから……だからお願いだよ、神様ぁ……」
名護「……(微笑んで)ばかやろう……」
土間に倒れたまま、抱き合う二人。
名護「待ってるよ」
またね「……へ?」
名護「神様もきっと、待っててくれるから。だから俺も、お前を待つことにする」
またね「どのくらい?」
名護「長くて、三年?」
またね「もぅ……けち」
名護「……ごめんな」
またね「?」
またねの頭にそっと、口づけをする。
○お江戸日本橋亭・演芸場
高座でまたねが優しく釈台を叩く。
またね「たとえすくえたのが泥水だけだったとしても、泥水に咲く華もあり。そしてその泥が濃いほど、蓮は大輪の華を咲かせるのだそうな。(叩)『芸道に咲くほとけ華』の一席、これにて読み終わりといたします」
深々と礼をする。
拍手――
山野「よっ、ブラボー!」
そのスタンディングを、
まどか「ありえないから」
と、制する。
顔を上げるまたね――
客席最後列で、山野とまどか、そして名護が笑顔で手を叩いている。
名護、ガッツポーズを見せる。
またね、笑み。
と、舞台袖から、
あかり「(小声)おばか、早くハケな」
またね、「いけね」という風に、頭を張扇でポン、と叩く。
○東京下町
その少し寂れた風景――
しかし大人たち(名護、山野、まどか)も楽しげに缶蹴りでもしているのだろうか、子供のように駆け回っている。
○下町文化小劇場・外観
小さな、しかし近代的なビル。
入口に「劇団なごりゆき第一回公演、『神様のパンの耳』」のポスターを張った表看板が立っている。
演出・脚本・主演「名護由基人」が大きな文字と奇抜な画像で表されてある。
そこへ――
またね「師匠、早く早く! 始まっちゃいますよ!」
きらきらの振袖姿のまたねが小走りで、
あかり「ったく、焦らせんじゃないよ、そそっかしい」
遅れて紋付姿のあかりがやって来る。
またね「友との約束を守るが人の道」
あかり「減らず口叩いてる間に始まっちまうよ」
と、先に行こうとする。
またね「あ、師匠、ちょっと待ってください!」
あかり「どした? あんたが早くって言っといてからに」
またね「その、なんてゆーか、彼と会うの、けっこう久しぶりで、それに……」
あかり「(ため息)なんだい?」
またね「まだ、あの返事、どうしようか迷ってて」
あかり「なんだい、そんなことか、大丈夫だよ。もうとっくに新しい彼女ができてるだろうからね」
またね「えー、そんなこと…!」
あかり「(笑ってまたねの背を叩き)いいじゃないか、そんときゃまた奪い返せば、さ」
またね「そりゃまた盲点」
あかり「ほら行くよ」
またね「あ、師匠!」
あかり「(まだ何か)?」
またね「私、キマってますか? ビシっと」
と、振袖姿を見せ。
あかり「ああ、粋だねぇ」
またね「へへ、もう二つ目なもんで」
あかり「こりゃどこからどう見ても四十前には見えないよ、自信を持ちな」
またね「へへへ。って、私はまだ…!」
開演のブザーが鳴る。
○同・ホール内
狭い舞台上でマッチ売り役の山野が、淑女役のまどかにすがりついている。
マッチ売り「どうかマッチを、マッチを買ってくださいませんか? お願いします」
淑女「そんな時代遅れの物、誰が買って? そんなのイマドキ、タダでもらえるわよバカじゃないの!」
マッチ売り「そんなことおっしゃらずに、どうか…! このマッチは丹精こめた手作りのマッチでございます、ライターにはない良さが、温かみがございます。ですから」
淑女「しつこいっ!」
と、ヒールで蹴飛ばし去って行く。
マッチ売り「ああ、痛い、けどなんか嫌いじゃないっ」
観客、笑う。
マッチ売り「でもやっぱり、みじめ……」
と、マッチを一本擦る。
とつじょスモークが巻かれ、神様役の名護が現れる。
マッチ売り「え……誰!?」
神様「見てわからぬか?」
マッチ売り「物乞いなら勘弁」
神様「違う! 逆だ。私は……」
マッチ売りにパンの耳を与えて、
神様「神様だ。頑張る者たちに、祝福を」
客席最前列のあかりとまたね――
またねの声「私の人生はまだ――」
マッチ売り「へ? 祝福がパンの耳かよ! そりゃないよ~」
神様「ええい愚か者、それ一つで三日はしのげるぞ」
マッチ売り「ちぇ、けちな神様」
神様「(歌舞伎のように)な~に~を~」
大笑いする、またねたち観客。
またねの声「始まったばかりだ」
(了)