月曜日、染井麻紀は振り向いた。三時間目と四時間目の間の十分の休み時間だった。逢坂りこのもっとも苦手な物理の授業が控えている。大事な話をするタイミングでは決してなかったのかもしれない。けれど、黒板の文字を消し終わったその日、日直当番だった染井麻紀を待ち構えていたのは他の何者でもなく、逢坂りこと高峰結菜だった。
その日の朝、逢坂りこはまず高峰結菜だけに話を持ちかけた。「ちゃんと相談し合おう」という、とてもシンプルな約束――「でも」高峰結菜は言った。「怖い」と。
「何が? 何が怖い?」
高峰結菜は答えなかった。曖昧に小首を傾げただけだった。それ以上強引に問い詰めれば、高峰結菜の協力は得られなかっただろう。彼女の心は、まっすぐ立つには少し、頼りなさすぎる。逢坂りこは怖さの原因を明らかにせず、「マキのこと、心配?」とだけ訊いた。
「うん、まあ」
「私も」
それだけでよかった。ただ、「あなたのことを心配している」。そのことを染井麻紀に、間違いなく伝えるだけでよかった。でも、いったい、どんな言葉で?
何も言わず、態度だけで安堵を与えられるほど、彼女たちは深く繋がってはいなかった。包囲網となって染井麻紀が落ち着ける居場所を提供するには、あらゆる絶対数に乏しかった。逢坂りこには、「ねえ、聴いて」の先に紡ぐ言葉に、確固たる足場が存在しなかった。それでも、吐き出さずにはいられなかった。正しく息をするために。
「?」
染井麻紀はその改まった表情から判断して、首を軽く横に振って、チョークで汚れた手を叩き、教室を出ようとした。
「待って」
「イナ」
教壇の上からそそくさと下りて廊下に出た染井麻紀を追いかける逢坂りこのあとを高峰結菜が付き従った。
「なぜ?」
「チ」
第一に教室のもっとも目立つ場所で話し合うなんて、恥にも程があった。染井麻紀は逃げるようにトイレへと向かった。尿意も便意もなかったけれど、もはや「人付き合い」自体が億劫となっているところへ、どうして、
「マキ!」
いきなり逢坂りこは名前を呼んで腕を掴んだり、なんて、そんな馬鹿みたいに野蛮なことを、したりするのだろう。暑苦しい……
――染井麻紀の家庭は、まさに息が詰まるようなそれだった。
父は国家公務員で「特定独立行政法人」という何やらややこしいお堅いところに勤めていて、母は大学の准教授に従事していた。どちらも余裕をもってそのポストに到達したのではなくて、マジメに努力した結果、獲得したそれだった。
両親は特別に愛し合って結婚したのではなかったし、家庭を持つこともあるいはステータスの一部であったのかもしれなかった。子供を欲しいと思ったことなどなかったが、成り行き上、一人の娘ができたのだった。あるいは「できてしまった」のだった。
そんな彼らには娘をまっとうに愛することなどできなかった。彼らが悪いのではなく、教科書がなかったのだ。育児の参考書は多々あれど、父は厳しく、母は優しく、とマニュアル通りに接すれば上手く育つ「子供」ではなかった。表面だけをいくら取り繕っても、染井麻紀にはすべて、分かってしまっていた。だからこそ、両親の態度は「うざい」以外の何物でもなかった。「うざい」の底に、愛情が感じられなかったのだ。
そしていつしか、彼女は「愛情」というものがどういうものなのか、それを把握するために二年間、試行錯誤をした。まさかそれが、少なくとも両親の価値観において、「取り返しのつかない過ち」だとは……中学生の女子に、分かるはずもなかった。高校生になっても、分かりたくもなかった。
「取り返しのつかない過ち」から逃げて、全部忘れ去ってしまうことが、染井麻紀の唯一の希望だった。その希望をむしばむ封筒に、写真……
そして、逢坂りこ……
「なに……?」
こいつの眼にはどうして、見たくもない自分の姿がまざまざと映し出されてしまうのだろう。染井麻紀は思った。きっと、こんな魔性の女と付き合ってしまったことが、災いのはじまりだったのだと。
その背後に潜む高峰結菜を見て、そう思い、歯が震えた。がちがちがちと、口の中で奥歯が鳴って、逢坂りこの手を振り払おうとした。ところが、
「これ」
「……?」
逢坂りこはもう一方の手で、染井麻紀に触り慣れた何かを握らせた。見ると、四つに折りたたまれて小さくなった一枚の再生紙だった。
「下駄箱に、入れておいて」
「は……?」
「お願い」
逢坂りこは、それが最後のひと押しだと覚悟して、眼を合わせて懇願して、染井麻紀の手を放した。警戒心と猜疑心のひと際強い女子高校生にとって、そういう「押し付け」をされるのがもっとも癪に障った。
「押し付け」は両親や教師やマスコミからだけで手一杯だった。同級生とは気楽で空疎な関係を続けていければそれでよかった。いったい何のために一年強の間、孤独に耐え忍んだと思っているのだ。染井麻紀は、自分の曲げてきたへそが台無しにされたようで、
「フヨウ」と、再生紙を叩き返した。
そしてそのままの勢いで女子トイレの個室に閉じこもった。休み時間終了かつ授業開始のチャイムが鳴るまで、そこから出ないつもりだった。高峰結菜がふと、四つ折りの再生紙を拾って、見た。
『ストーカーさんへ。堂々と、胸を張って、出てきなさい』
「さん?」
その敬称がどうしても理解しがたくて、なんだかんだの日常を侵した犯人は結局、逢坂りこだったのだと早合点して、光源である彼女の瞳から高峰結菜は、あっさりと姿を消した。こんなにやわな絆だったのかと、そうショックを受ける暇もなく――
こうして、ゴッホの最初の「ひまわり」は見ず知らずの個人蔵へと収められた。そういえばそんな絵もあったね、と誰かの語り草となる以外に、二度と築かれ得ない「関係」へとなり下がってしまったのである。たとえばかつて、線香花火を囲い合った仲間たちの面影が実際よりもきらめいて懐かしまれるように。陳腐で、あっけない。べつに高校を卒業して大学に行ってまで付き合いを続ける気もなかったし、ましてや成人して同窓会でたまに会って「うちの旦那」の悪口を言い合うような間柄になろうなんて、これっぽっちも思っていなかったけれど……
そのまま窮屈な場所に四角く収められることを、逢坂りこは、認めたくなかった。
――昼休み。これまで通りなら、三人は教室で机を合わせて黙々と弁当を食べ、図書館に行くか天気のいい日には校庭を出歩くかするのだけど、染井麻紀も高峰結菜もおのおの弁当を持って、逢坂りこを残してどこかに散ってしまった。まるで昼食を摂る前に、鬼ごっこをしなければならないみたいだった。
学校には、校則以外にも暗黙のルールが縦横無尽に張り巡らされてある。しかしその多くは蜘蛛の巣みたいに人間の手にかかればたやすく破けてしまうものであって……意外と、蜘蛛は巣を破かれると、怒る。そして逃げる。でも、人間は巣を破壊する。
その連鎖はとめどもなく繰り返されて、逢坂りこもまた、触れてはいけない純白の糸を破ってしまったのかもしれなかった。代わって、物理の「力のモーメント」におけるサインとかシータとかの入り組んだ記号が頭に絡みついて離れない。
痛い、固い、見えない――
「友達」の心が、まるきり読めない。弁当の玉子焼きが口の中で砂と化す。お節介をしてしまった。逢坂りこの十七年の人生ではじめての明瞭な「対人不和」。いわれてみれば、思い返してみれば――
誰かとの関係が途切れることや気まずくなることはたしかにあったはずだけれど、こんなに対人関係で打ちのめされ、悩んだことは実際のところ、あり得なかった。なぜなら逢坂りこはずっと、大抵の「人を見下してきた」からだ。人を尊敬して、手を差し伸べようと頑張ってみたら、こうなってしまうことを、暗に予想していたからだ。
――五時間目と六時間目と下校時間と、「ぼっち」で過ごした三時間は長く、骨身にしみるほどに切なかった。
翌火曜日、「どうやって仲直りしようか」と考えあぐねて放課後、そして午後七時、週に一度のヨガ講座。この日も「呼吸法」「太陽礼拝」「シバナンダヨガ 十二の基本ポーズ」、最後に「リラックス」と、まるで変わらぬリズムで、恒例の行事みたいに訓練していった。
米村先生にとっては、受講生たちが熟達しようがしまいが関係のないことのように思われた。九十分のレッスンが終わり、逢坂りこは彼に相談したかった。「ストーカー撃退法」と「仲直りの仕方」と「人の愛し方」について。なんとなく彼なら、適正な分だけの助言を与えてくれそうだったのだ。
けれど右隣には母がへばりついていたし、まだフランクに話せるほどの間柄ではなかったし、何よりも時間がなかった。「本日もお疲れ様でした」「ありがとうございました。また次週もよろしくお願いします」という会釈ほどの暇しかないのが実状だった。あるいは春まで通い続ければ、連絡先の交換くらいは自然におこなえるのかもしれない。でも逢坂りこの問題に限ってはそんなに、待てない。
「逢坂さん、一回目より少しだけ柔らかくなりましたね」
帰りがけに米村先生はおそらく、世辞を述べた。初心者である逢坂母娘の心をほんの少しだけ、ほぐすために。
「そうですか、それはどうも。肩こりも少し楽になって、ヨガって本当に効くんですねえ」
と、逢坂りこの母は応えた。本当に実感なんて、ないくせに。娘はそんな母親の醜い声色を耳にするたび、よく思う。
母親がこの世から三日三晩でも消えてくれたなら、どんなにか解放感を満喫できるだろう、と。
「それはよかった。何事も継続は力です。是非とも気長に続けてみてください」米村先生は見事なお辞儀をして、階段を軽やかに左回りで下りてゆく。
ぐっと下唇を噛みしめて逢坂りこは少し、駆けた。どうしても今日、聞かなければいけないことが一つだけ、あったのだ。なるべく婉曲的に、ありきたりな風を装って――
「あの、先生」
「はい?」
「一つだけお聞きしたいことが」
「はい、何でしょう?」
「もっと柔軟なからだをつくるために、日々心がけることは何ですか?」
一瞬、時が止まったような気がした。必死になって質問した自分「らしくなさ」が露呈されているかもしれなくて、「りこ?」と母がいぶかしげに迫ってきていて、人対人の面倒臭さが排気ガスを吸い込むみたいに鼻腔をむせ返らせる。
逢坂りこの「舞台の上にも三年」は、自意識を過剰にさせるには充分すぎた。米村先生が微笑み、答えるより前に逃げ出したかった。
「肩の力を抜き、ぶらぶらすることです」
水と大豆にこだわった豆腐の味わいなんて、逢坂りこにはいまいち分からなくて、ただ目をしばたたかせた。
「抜けた分だけ戻ってくるのが自然のはたらきですから、自然を信頼できた分だけ柔軟さは手に入ります」
「なるほど、深いですねえ」と、母はその深淵を一瞥もせずに言った。
「大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございました。また来週、よろしくお願いします」
それで、別れた。
帰途、十数分の電車の中で逢坂りこは、何も考えなかった。水曜日が来て、木金土とまめに肩の力を抜き、なるべくぶらぶらしながら過ごした。
一人で過ごすことはべつに苦じゃなかったし、事務的にクラスメイトたちと会話する蓋然性もあった。染井麻紀や高峰結菜と常に一緒であるという必然性のほうが現実にはなかったのだ。
ただ朝登校して、六時間の授業に出席して、おやつ時に下校する。たまの行事はあれど、本質的にはその繰り返し。わざわざ厄介事を抱え込むのは、成人してからでも遅くないだろう。
このまま消滅するのが自然の流れであるように思われた。はなから彼女たちも自分も、描いた「ひまわり」のカンケイも全く「自然体」ではなかったことに、今更ながら気がついてしまったのだから。
「世界」というのは、その「光景」を完全に見なくなれば、意識から外してしまえば、「存在しない」も同然となる。いつかの「ストーカー」も「カゲ」も都合の悪いものは全部、単なる健忘や盲点として済ませてしまえる。気味の悪いものは一旦、全部押入れの中に放り込んで、またきれいな新しいカンケイをつくることこそ、自然。それでいい。開かれた、風通しのよい、ビーチパラソルの下で談笑し合えるような友人たちこそ、新しい逢坂りこの真に求めるもの。だから――
「ねえ、聴いて」
月曜日、染井麻紀と高峰結菜は振り向いた。二人がそろうのを、あれ以来ひそかに待ちわびていた。意識的に無視し合っていた一週間だったけれど、やはり「人間の関係」というのは半分不自然でぎこちなく、半分自然の磁力で抗いようもなく引き合ってしまうものなのだろう。
だから、逆説的に、逢坂りこは決めたのだ。染井麻紀と高峰結菜を見過ごしてしまうのは、まだ早い、と。朝の「下駄箱」の前で。
「?」
逢坂りこはそして、姿勢を正して言った。
「この前は、お節介して、ごめん。だけど、私は……」
もはや「自分を見下ろす自分」はいなかった。逢坂りこは一心に、自己主張したかった。
「ただ、力に、なりたかった……」
そのあとの傷害よりも、それを伝えなかった後悔のほうが長く尾を引く――これで本当に終わるなら、それでよかった。何より大事なのは、その終わらせ方だった。
逢坂りこはあの無名な「淡い水彩画」を愛していたから、このまま顔料も落とさない中途半端な状態で放置しておくのは、どこか罪深いことのように感じられたのだ。
「それだけ」
染井麻紀と高峰結菜は、逢坂りこの瞳を見据えた。
澄んだ水面に、かたくなな岩肌がゆらいで映る。二人はそこに、もう少し鮮やかな色彩を足してもいいような気がした。高峰結菜はおもむろにスクールバッグのファスナーを外して、四つ折りの再生紙を取り出した。それを無言で染井麻紀に差し出す。観念したように紙を受け取って、左三列の一段目に、彼女は上履きの代わりにそれを入れた。
「リョウカイ」
こうして染井麻紀の靴箱の中にはその日、ちっぽけな紙切れが一片収められた。
放課後にそれが消えてなくなったのと同時期に、彼女に送り届けられる「謎の写真」も自然と、
消えてなくなったのだった。