【ネット小説】生彩 Ⅳ緑の空洞

月曜日、染井麻紀は振り向いた。三時間目と四時間目の間の十分の休み時間だった。逢坂りこのもっとも苦手な物理の授業が控えている。大事な話をするタイミングでは決してなかったのかもしれない。けれど、黒板の文字を消し終わったその日、日直当番だった染井麻紀を待ち構えていたのは他の何者でもなく、逢坂りこと高峰結菜だった。

その日の朝、逢坂りこはまず高峰結菜だけに話を持ちかけた。「ちゃんと相談し合おう」という、とてもシンプルな約束――「でも」高峰結菜は言った。「怖い」と。

「何が? 何が怖い?」

高峰結菜は答えなかった。曖昧に小首を傾げただけだった。それ以上強引に問い詰めれば、高峰結菜の協力は得られなかっただろう。彼女の心は、まっすぐ立つには少し、頼りなさすぎる。逢坂りこは怖さの原因を明らかにせず、「マキのこと、心配?」とだけ訊いた。

「うん、まあ」

「私も」

それだけでよかった。ただ、「あなたのことを心配している」。そのことを染井麻紀に、間違いなく伝えるだけでよかった。でも、いったい、どんな言葉で?

何も言わず、態度だけで安堵を与えられるほど、彼女たちは深く繋がってはいなかった。包囲網となって染井麻紀が落ち着ける居場所を提供するには、あらゆる絶対数に乏しかった。逢坂りこには、「ねえ、聴いて」の先に紡ぐ言葉に、確固たる足場が存在しなかった。それでも、吐き出さずにはいられなかった。正しく息をするために。

「?」

染井麻紀はその改まった表情から判断して、首を軽く横に振って、チョークで汚れた手を叩き、教室を出ようとした。

「待って」

「イナ」

教壇の上からそそくさと下りて廊下に出た染井麻紀を追いかける逢坂りこのあとを高峰結菜が付き従った。

「なぜ?」

「チ」

第一に教室のもっとも目立つ場所で話し合うなんて、恥にも程があった。染井麻紀は逃げるようにトイレへと向かった。尿意も便意もなかったけれど、もはや「人付き合い」自体が億劫となっているところへ、どうして、

「マキ!」

いきなり逢坂りこは名前を呼んで腕を掴んだり、なんて、そんな馬鹿みたいに野蛮なことを、したりするのだろう。暑苦しい……

――染井麻紀の家庭は、まさに息が詰まるようなそれだった。

父は国家公務員で「特定独立行政法人」という何やらややこしいお堅いところに勤めていて、母は大学の准教授に従事していた。どちらも余裕をもってそのポストに到達したのではなくて、マジメに努力した結果、獲得したそれだった。

両親は特別に愛し合って結婚したのではなかったし、家庭を持つこともあるいはステータスの一部であったのかもしれなかった。子供を欲しいと思ったことなどなかったが、成り行き上、一人の娘ができたのだった。あるいは「できてしまった」のだった。

そんな彼らには娘をまっとうに愛することなどできなかった。彼らが悪いのではなく、教科書がなかったのだ。育児の参考書は多々あれど、父は厳しく、母は優しく、とマニュアル通りに接すれば上手く育つ「子供」ではなかった。表面だけをいくら取り繕っても、染井麻紀にはすべて、分かってしまっていた。だからこそ、両親の態度は「うざい」以外の何物でもなかった。「うざい」の底に、愛情が感じられなかったのだ。

そしていつしか、彼女は「愛情」というものがどういうものなのか、それを把握するために二年間、試行錯誤をした。まさかそれが、少なくとも両親の価値観において、「取り返しのつかない過ち」だとは……中学生の女子に、分かるはずもなかった。高校生になっても、分かりたくもなかった。

「取り返しのつかない過ち」から逃げて、全部忘れ去ってしまうことが、染井麻紀の唯一の希望だった。その希望をむしばむ封筒に、写真……

そして、逢坂りこ……

「なに……?」

こいつの眼にはどうして、見たくもない自分の姿がまざまざと映し出されてしまうのだろう。染井麻紀は思った。きっと、こんな魔性の女と付き合ってしまったことが、災いのはじまりだったのだと。

その背後に潜む高峰結菜を見て、そう思い、歯が震えた。がちがちがちと、口の中で奥歯が鳴って、逢坂りこの手を振り払おうとした。ところが、

「これ」

「……?」

逢坂りこはもう一方の手で、染井麻紀に触り慣れた何かを握らせた。見ると、四つに折りたたまれて小さくなった一枚の再生紙だった。

「下駄箱に、入れておいて」

「は……?」

「お願い」

逢坂りこは、それが最後のひと押しだと覚悟して、眼を合わせて懇願して、染井麻紀の手を放した。警戒心と猜疑心のひと際強い女子高校生にとって、そういう「押し付け」をされるのがもっとも癪に障った。

「押し付け」は両親や教師やマスコミからだけで手一杯だった。同級生とは気楽で空疎な関係を続けていければそれでよかった。いったい何のために一年強の間、孤独に耐え忍んだと思っているのだ。染井麻紀は、自分の曲げてきたへそが台無しにされたようで、

「フヨウ」と、再生紙を叩き返した。

そしてそのままの勢いで女子トイレの個室に閉じこもった。休み時間終了かつ授業開始のチャイムが鳴るまで、そこから出ないつもりだった。高峰結菜がふと、四つ折りの再生紙を拾って、見た。

『ストーカーさんへ。堂々と、胸を張って、出てきなさい』

「さん?」

その敬称がどうしても理解しがたくて、なんだかんだの日常を侵した犯人は結局、逢坂りこだったのだと早合点して、光源である彼女の瞳から高峰結菜は、あっさりと姿を消した。こんなにやわな絆だったのかと、そうショックを受ける暇もなく――

こうして、ゴッホの最初の「ひまわり」は見ず知らずの個人蔵へと収められた。そういえばそんな絵もあったね、と誰かの語り草となる以外に、二度と築かれ得ない「関係」へとなり下がってしまったのである。たとえばかつて、線香花火を囲い合った仲間たちの面影が実際よりもきらめいて懐かしまれるように。陳腐で、あっけない。べつに高校を卒業して大学に行ってまで付き合いを続ける気もなかったし、ましてや成人して同窓会でたまに会って「うちの旦那」の悪口を言い合うような間柄になろうなんて、これっぽっちも思っていなかったけれど……

そのまま窮屈な場所に四角く収められることを、逢坂りこは、認めたくなかった。

 

――昼休み。これまで通りなら、三人は教室で机を合わせて黙々と弁当を食べ、図書館に行くか天気のいい日には校庭を出歩くかするのだけど、染井麻紀も高峰結菜もおのおの弁当を持って、逢坂りこを残してどこかに散ってしまった。まるで昼食を摂る前に、鬼ごっこをしなければならないみたいだった。

学校には、校則以外にも暗黙のルールが縦横無尽に張り巡らされてある。しかしその多くは蜘蛛の巣みたいに人間の手にかかればたやすく破けてしまうものであって……意外と、蜘蛛は巣を破かれると、怒る。そして逃げる。でも、人間は巣を破壊する。

その連鎖はとめどもなく繰り返されて、逢坂りこもまた、触れてはいけない純白の糸を破ってしまったのかもしれなかった。代わって、物理の「力のモーメント」におけるサインとかシータとかの入り組んだ記号が頭に絡みついて離れない。

痛い、固い、見えない――

「友達」の心が、まるきり読めない。弁当の玉子焼きが口の中で砂と化す。お節介をしてしまった。逢坂りこの十七年の人生ではじめての明瞭な「対人不和」。いわれてみれば、思い返してみれば――

誰かとの関係が途切れることや気まずくなることはたしかにあったはずだけれど、こんなに対人関係で打ちのめされ、悩んだことは実際のところ、あり得なかった。なぜなら逢坂りこはずっと、大抵の「人を見下してきた」からだ。人を尊敬して、手を差し伸べようと頑張ってみたら、こうなってしまうことを、暗に予想していたからだ。

――五時間目と六時間目と下校時間と、「ぼっち」で過ごした三時間は長く、骨身にしみるほどに切なかった。

翌火曜日、「どうやって仲直りしようか」と考えあぐねて放課後、そして午後七時、週に一度のヨガ講座。この日も「呼吸法」「太陽礼拝」「シバナンダヨガ 十二の基本ポーズ」、最後に「リラックス」と、まるで変わらぬリズムで、恒例の行事みたいに訓練していった。

米村先生にとっては、受講生たちが熟達しようがしまいが関係のないことのように思われた。九十分のレッスンが終わり、逢坂りこは彼に相談したかった。「ストーカー撃退法」と「仲直りの仕方」と「人の愛し方」について。なんとなく彼なら、適正な分だけの助言を与えてくれそうだったのだ。

けれど右隣には母がへばりついていたし、まだフランクに話せるほどの間柄ではなかったし、何よりも時間がなかった。「本日もお疲れ様でした」「ありがとうございました。また次週もよろしくお願いします」という会釈ほどの暇しかないのが実状だった。あるいは春まで通い続ければ、連絡先の交換くらいは自然におこなえるのかもしれない。でも逢坂りこの問題に限ってはそんなに、待てない。

「逢坂さん、一回目より少しだけ柔らかくなりましたね」

帰りがけに米村先生はおそらく、世辞を述べた。初心者である逢坂母娘の心をほんの少しだけ、ほぐすために。

「そうですか、それはどうも。肩こりも少し楽になって、ヨガって本当に効くんですねえ」

と、逢坂りこの母は応えた。本当に実感なんて、ないくせに。娘はそんな母親の醜い声色を耳にするたび、よく思う。

母親がこの世から三日三晩でも消えてくれたなら、どんなにか解放感を満喫できるだろう、と。

「それはよかった。何事も継続は力です。是非とも気長に続けてみてください」米村先生は見事なお辞儀をして、階段を軽やかに左回りで下りてゆく。

ぐっと下唇を噛みしめて逢坂りこは少し、駆けた。どうしても今日、聞かなければいけないことが一つだけ、あったのだ。なるべく婉曲的に、ありきたりな風を装って――

「あの、先生」

「はい?」

「一つだけお聞きしたいことが」

「はい、何でしょう?」

「もっと柔軟なからだをつくるために、日々心がけることは何ですか?」

一瞬、時が止まったような気がした。必死になって質問した自分「らしくなさ」が露呈されているかもしれなくて、「りこ?」と母がいぶかしげに迫ってきていて、人対人の面倒臭さが排気ガスを吸い込むみたいに鼻腔をむせ返らせる。

逢坂りこの「舞台の上にも三年」は、自意識を過剰にさせるには充分すぎた。米村先生が微笑み、答えるより前に逃げ出したかった。

「肩の力を抜き、ぶらぶらすることです」

水と大豆にこだわった豆腐の味わいなんて、逢坂りこにはいまいち分からなくて、ただ目をしばたたかせた。

「抜けた分だけ戻ってくるのが自然のはたらきですから、自然を信頼できた分だけ柔軟さは手に入ります」

「なるほど、深いですねえ」と、母はその深淵を一瞥もせずに言った。

「大丈夫ですか?」

「はい、ありがとうございました。また来週、よろしくお願いします」

それで、別れた。

帰途、十数分の電車の中で逢坂りこは、何も考えなかった。水曜日が来て、木金土とまめに肩の力を抜き、なるべくぶらぶらしながら過ごした。

一人で過ごすことはべつに苦じゃなかったし、事務的にクラスメイトたちと会話する蓋然性もあった。染井麻紀や高峰結菜と常に一緒であるという必然性のほうが現実にはなかったのだ。

ただ朝登校して、六時間の授業に出席して、おやつ時に下校する。たまの行事はあれど、本質的にはその繰り返し。わざわざ厄介事を抱え込むのは、成人してからでも遅くないだろう。

このまま消滅するのが自然の流れであるように思われた。はなから彼女たちも自分も、描いた「ひまわり」のカンケイも全く「自然体」ではなかったことに、今更ながら気がついてしまったのだから。

 

「世界」というのは、その「光景」を完全に見なくなれば、意識から外してしまえば、「存在しない」も同然となる。いつかの「ストーカー」も「カゲ」も都合の悪いものは全部、単なる健忘や盲点として済ませてしまえる。気味の悪いものは一旦、全部押入れの中に放り込んで、またきれいな新しいカンケイをつくることこそ、自然。それでいい。開かれた、風通しのよい、ビーチパラソルの下で談笑し合えるような友人たちこそ、新しい逢坂りこの真に求めるもの。だから――

 

「ねえ、聴いて」

 

月曜日、染井麻紀と高峰結菜は振り向いた。二人がそろうのを、あれ以来ひそかに待ちわびていた。意識的に無視し合っていた一週間だったけれど、やはり「人間の関係」というのは半分不自然でぎこちなく、半分自然の磁力で抗いようもなく引き合ってしまうものなのだろう。

だから、逆説的に、逢坂りこは決めたのだ。染井麻紀と高峰結菜を見過ごしてしまうのは、まだ早い、と。朝の「下駄箱」の前で。

「?」

逢坂りこはそして、姿勢を正して言った。

「この前は、お節介して、ごめん。だけど、私は……」

もはや「自分を見下ろす自分」はいなかった。逢坂りこは一心に、自己主張したかった。

「ただ、力に、なりたかった……」

そのあとの傷害よりも、それを伝えなかった後悔のほうが長く尾を引く――これで本当に終わるなら、それでよかった。何より大事なのは、その終わらせ方だった。

逢坂りこはあの無名な「淡い水彩画」を愛していたから、このまま顔料も落とさない中途半端な状態で放置しておくのは、どこか罪深いことのように感じられたのだ。

「それだけ」

染井麻紀と高峰結菜は、逢坂りこの瞳を見据えた。

澄んだ水面に、かたくなな岩肌がゆらいで映る。二人はそこに、もう少し鮮やかな色彩を足してもいいような気がした。高峰結菜はおもむろにスクールバッグのファスナーを外して、四つ折りの再生紙を取り出した。それを無言で染井麻紀に差し出す。観念したように紙を受け取って、左三列の一段目に、彼女は上履きの代わりにそれを入れた。

「リョウカイ」

こうして染井麻紀の靴箱の中にはその日、ちっぽけな紙切れが一片収められた。

放課後にそれが消えてなくなったのと同時期に、彼女に送り届けられる「謎の写真」も自然と、

消えてなくなったのだった。

【ネット小説】生彩 Ⅴ内気な青

彼女たちはそれから、月並で豊かな日本語で会話を交わすようになり、自ずとその輪も広がっていった。何だかクラス全体が和やかになったみたいだ、と逢坂りこには感じられた。

二年一組二十七人の女子全員が、それなりに打ち解け合って、ああねこうねと言葉を交わすようになったのだ。厳冬の二月に入って、ようやく――

しかし諸行は無常。季節はめぐり、三年二組になった逢坂りこは、三年一組の染井麻紀と高峰結菜と離ればなれとなった。油彩画は水彩画に回帰した。けれどそれは以前よりもまして精妙となったし、もはや心残りはさしてなかった。

また一から築く人間関係はちょっぴり憂鬱で、大学受験の勉強もしなくちゃで、しばらく逢坂りこは心の窓を閉じることにした。なにぶん外の気候は穏やかだから、日に数回換気するだけで、特に問題はなかったのだ。それに――

『先生は、どうしてヨガに目覚めたのですか?』

週に一度のヨガ教室は変わらず続けていて、しかも母が「家計の問題」で辞めることになって、四月から逢坂りこが一人で米村先生のもとに通うようになった。むろん個人授業ではないけれど、彼女は機を見計らって米村先生のメールアドレスを聞き出すことに成功したのだった。建前は「ヨガの哲学をもっと深く知りたい」であった。

『きっかけは、大学生のときにヒマラヤ山脈に登ったことです』

ショートメッセージはすぐに返ってきた。情報技術隆盛の時代だった。文面のやり取りが「スマートフォン」という多機能携帯電話の画面の中で手軽にできた。

『ヒマラヤって、エベレスト?』

『そうです。けど、僕は遠目からエベレストを眺められる場所まで行っただけです』

逢坂りこは信州でかつて見た雄大な山脈のイメージを右脳に浮かべながら、右親指で素早く文章を打ち込んでいった。

『あ、わかりました。その光景があまりにきれいだったもんで、すっかりヒマラヤにはまって、そこでヨガにも魅せられた、とか?』

『いいえ、その逆です』

『逆?』

『はい、天気が悪くて、目的のエベレストがほとんど見えなかったんです。せっかく七時間もかけて行ったのに』

『それはお気の毒様です』

『いえいえ。それで悔しくて、いつか必ずもう一度ヒマラヤに行こう、といろいろ勉強していたら、ヨガにばったり出くわした、という次第です』

『ばったり?』

『ええ、僕の半生はばったりにあふれています』

逢坂りこはその文章を一文字ずつもいで、ミキサーにかけて飲み干してから、言葉をついだ。夜はすっかり深まっていて、米村先生はもう眠くてメッセージのやり取りを早々に切り上げたいのかもしれないけれど、そんなことは彼女にとってはお構いなしであった。

『なるほど。それで、晴れたエベレストはもうご覧になれましたか?』

その一文をついだあと、しばらく返信は送られてこなかった。じっと液晶パネルが発する光を直視しながら、逢坂りこはため息をついた。

先生に教えてもらった「深くゆったりした呼吸」が、先生のせいでできなくなったような気がした。親子ほども年の離れた男性に抱くこの感情は、ヨガの倫理や哲学に背いているのではないか、と不安になった。まだ彼女はそれらについて教えてもらっていないけれど、きっと。

何より米村先生は、妻帯者であった。どういうわけか子供はいないそうだが、すでに「ばったり」出会って結ばれた配偶者がいたのだ。そんな私的な情報は知っていた。

「我ながら……」

情けない、と逢坂りこは思った。

情で満たされた浅いプールの底に沈むように、そして彼女は眠りに落ちた――

気づくと、意識は水の中にいた。

白い光の穴に向かって、無数の泡が吸い込まれてゆく。ゆらめいている。水は絶え間なく、ゆらめいている。

そして「私」は、そこにいた。

青のリボンの白いセーラー服を着た「私」が浮いているのを、逢坂りこの意識は観察していた。逢坂りこは、ただ死体のように漂う「私」が少し、不憫に思えた。まだ全裸でいたなら、下半身が魚だったなら、少しは絵になったかもしれないのに。

しかしセーラー服の「私」がこちらに顔を向けると、逢坂りこは気づいてしまった。「私」の鼻から湧き出る小さな泡のせいで、自分がまるで息をしていないということを――

 

「はあっ!」

電気の点いたまま、スマートフォンを握ったまま、ベッドの上でうつぶせに寝ていた。

『残念ながら、まだ見れていません』

そしてその八分後――

『今日はもう遅いので、先に眠りに就きます。また明日。おやすみなさい』

米村先生という男は、どこまでも律儀で、優しかった。けれど逢坂りこには、それがまるで「娘」に対する愛情だと、分かりきっていた。

「……おやすみなさい」

リモコンのボタンが押され、電気が消えた。現実にはただの暗がりしかなかったから、すぐにカラフルな夢を見たかったのだけども、目が冴えてなかなか眠れず、さらに目覚めたときには夢を見た憶えなど丸きりなかった。そんな殺生なヨが明けても明けなくても、やるべきことがある限り、日常は続くのだろう。

逢坂りこの場合は目下、受験勉強だった――

この頃、教室の空気が天候に反して、ピンと張りつめていた。そこは「頑張れば一流大学」に合格する程度の進学校で、「頑張った者すなわち勝者」だった。まだ結果の見えない時期だからこそ、教師たちは目に見える「努力」を最高の美徳とした。

自習室がすぐに満員となった。教室の後ろの棚には、世界思想社教学社発行の「大学入試シリーズ」通称「赤本」がずらりと並べられていた。

あるいはそういった現象は、一年も二年も前からその高校の「常識」だったのかもしれなかった。けれど逢坂りこがそれらを認識し出したのが、三年生にもなってようやく土砂降りの六月だった、というだけのことで――

ため息はつきそうになかった。

それにもまして、「進路」が定まっていなかった。就職する気も専門学校を行く気もいわんや嫁ぐ気もないから、大学に進学する大通りしかないように思われたけれど、それでも針は東に西に、国立に私立に、文学に法学にと、ゆれにゆれて、相談する先は毎度、学校のではなくて、ヨガの先生――

『いっそ私もヨガ講師になろうかな、なんて』

注意して、また受験勉強のほうへ戻してほしい。そんな逃げ口上だった。

『本気でなろうと思えば、明日からでもなれますよ』

「え?」そんな返答を求めていたのではなかった。

『いや、それは……』

『大げさですが。ヨガ講師養成講座に参加し、協会から認定書を取得すれば、すぐになれますよ、本当に』

「うーん」

否定してほしかったのに。

あなたはまだ若いのだから、アスファルトで塗り固められた、信号や街灯つきのスムーズな道を歩くべきですと、優しく諭してほしかったのに。

ヨガ講師の道は逢坂りこにとっていささか、いやかなり、非理性的で未舗装な脇道だった。

『いろいろ、自分なりに考えてみます。ありがとうございました』

スマートフォンの画面を暗転させると、どこかでシャッターを切られたような音がした。我がままな自分の姿を、きっと神様は撮影したのだろう。逢坂りこはそんな自分に腹が立ったけれど、いっそ腹の虫に心ゆくまで羽ばたかせてやろうと、

 

「お母さん、信州に行きたい」

 

と言った。

「どうしたの、突然?」

「憶えてる? ひいじいさんのこと」

風呂上がりで髪も生乾きの母は、呆気にとられた。むしろ当時幼かったのは娘のほうで、あれ以来「ひいじいさん」が話題に上ったことなど一度もなかったのに。

「もちろん憶えているわ。でも、なんで今頃?」

「心配しないで。きわめて冷静に、将来のことを考えた上で、また行きたくなったの」

「そうなの……」

冷静に突飛な要求をする娘に少し不安を覚えながらも、母はその要求を呑むしかなかった。逢坂りこが自らああしたいこうしたいと訴えることはそう多くない。週末の予定は特にない。梅雨は明けていないが、天気予報も晴れマーク。何よりその白目の青みがかった透明感が、年長者の拒否権をあっけなく奪い去ってしまった。

「しかたないわね……ただし」

これだけは事前に伝えておかなくてはいけない。

「信州のおじいちゃんはもう、この世にはいないのよ」

小学校を卒業する前にはすでに亡くなっていたのだけど、娘に伝えるまでもない些末なことに思えていた。何しろ彼は隠居していたし、娘とはたったの一度きりしか会っていなかった。葬儀も内々でおこなわれた。てっきり娘は「伊那谷のひいじいさん」の存在を忘れているのだと思っていたし、実際、忘れきっていた。

「うん……それでも、ただあそこにもう一度行きたい」

この子は……と、母は畏れた。山を拝むように、海の底を覗くように。

「行こうか、土曜日から一泊二日で」

「うん」

何も見えないままに、まずは「行くこと」だけを決めた。

それから逢坂りこはインターネットを利用して、自分自身の判断によって、簡素な旅行の手配をすべて一人でやった。本音は独りきりで行きたかったのだけど、実際的な「未成年」には「保護者」が付き添うべきだとされた。そんな時代で未熟な彼女にでき得ることといえば、主に「検索」と「予約」であった。

それでも父は置いておくことにした。「留守をお願い」と頼んだら、「どんと任せろ」と応えた。父も曲がりなりに、大人だった。大人は面倒臭い生き物だけれど、その臭さを汲み取るものが子供であるのかもしれなかった。

 

そして土曜日――

午前十一時に新宿駅西口から出発した高速バスは、午後二時に中央道辰野に到着した。六歳のときに感じた長距離移動が一回り大きくなった逢坂りこには、とてもあっけなく思えた。たったの三時間――

「もう着いた。早いね」

「こんなものよ、東京から長野なんて」母は言った。

一回り昔から距離は変わらない。変わるのは、その距離を行くものの感覚だった。

「どうも、こんにちは。逢坂さんですか?」

「あ、はい、そうです」

「はじめまして、『月のもり』の者です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

そう言って「月のもり」の女主人は深々と頭を垂れた。会釈して、逢坂母娘は導かれるままに白い日産の車に乗り込んだ。車内には「BUMP OF CHICKEN」の楽曲が流れていた。

「今回はまたどういった目的で?」

わざわざ東京から母娘二人でこんな田舎にやって来たのだろうか――謙遜でも卑下でもなく、単なる話の種として。女主人はよく通る声で訊いた。

「昔、私の祖父が伊那谷に住んでいまして」母は事情を説明しようとした。

「今回はただの観光です」

しかし逢坂りこは「そんなことは今となっては関係がない」といわんばかりの言葉をついだ。

「蛍と花を見に」

それが純粋な部分で、今回の旅の目的だった。山脈や渓谷よりも、もっとささやかなものたちを〝もう一度〟確認するために――

「なるほど。それはまたちょうどいい時期に来られました」

逢坂りこにとってそのタイミングは千載一遇の偶然だったのだけれど、女主人は観光客相手の慣れた口調で言った。たとえどんなに辺鄙な町でも、日本一のゲンジボタルが見られる〝日本中心のゼロポイント〟であることに異存はなかった。

「それで、夕飯のほうはいつ頃になさいましょう? 蛍は夜八時頃がいちばんよく見られるそうなんですけれど、今はイベントで通行止めになっておりまして、車で送迎できる場所からまた多少歩くことになるかと思います。ですので、七時までには宿を出るようにと心づもりでお願いします」

「そうですね、じゃあ早めに五時半で」

「分かりました、五時半ですね」

女主人は、農業で培ったたくましい腕でハンドルを切った。

人工の建物が徐々に減り、田畑から森林へと風景が変わっても、アスファルトの車道は途切れなかった。やがて車は薪の積み重ねられた壁の間に停まった。こげ茶の木枠が白い漆喰の上を整然と交差する「月のもり」の宿は伊那谷最北端の奥深い山合にたたずんでいた。

カナダから来た同居人と二人で自給自足に近い形で経営していて、一日一組限定で「大自然のおもてなし」をしているそうだった。

ただその日はたまたま同居人が遊びに出かけていて、もんぺ姿の女主人一人とイヌにネコ、ウサギたちという童話のような歓迎を受けた。

「welcome」の戸をくぐった先に待ち構えていた魔除けの像とニンニクの籠を横目に靴を脱いで上がると、吹き抜けるような内部空間における開放感があった。そう広くも豪華でもない閉ざされた空間で、それでもそこには無数の精霊を詰め込めるだけの大らかさが存在していた。

風も水もつかめないけれど、その存在を疑う者がまだこの世にいるのだろうか――

もしいるのだとしたら、彼らはいったい何を食べ、何を考えて生活しているのだろうか――

逢坂りこの疑念は精霊の実在よりもむしろ、

「たばこ吸っても大丈夫ですか?」

と尋ねる母親のほうにあった。彼女はヘビースモーカーだった。逢坂りこはその臭さをどうしても汲み取ることができなかった。

「申し訳ありません。館内は禁煙ですが、外でしたら構いません。今、灰皿を用意いたしますので、ちょっとお待ちください」

「どうもすいません」

容姿云々、性格云々は全面的にゆるせていたし、決して母を憎んでいたわけではなかったし、孝行や恩返しもするつもりでいたし、人間は世界を汚さなければ生きていけないということは重々承知していたのだけれど、からだ全体が紙巻たばこを拒絶していたのだから、どうしようもなかった。

「正しい呼吸」をするために、深い部分では、母親を殺してしまいたいとさえ思っていた。

しかしこの物質的な世の中の半分は思い通りにはいかないのだということも、逢坂りこの理性は火を見るより明らかに、知ってしまっていたのだった。残念ながら。

【ネット小説】生彩 Ⅵ素晴らしく美しい藍

たとえばある物語の概要をあらかじめ知らされていたとして、人はそれでも、その物語に熱中することができるのだろうか。

「ほたる童謡公園」内の暗がりを歩きながら、逢坂りこの出した答えは、単純に「できる」であった。

物語や絵画や音楽や舞踊や建築や服飾や料理といったものの味わいは、死ぬまでに何百遍同じものを咀嚼しても変わらないはずだった。六歳の中頃に見た景色と十七歳の終わり頃に見た景色の素晴らしさは、そうそう変わらずにあるべきだった。

川となり海となり雲となり雨となり、また川となり続いてゆく――

そんな一筋の流れを見失ってしまうのは、あるいは淀んだ水のせいで発症する「健忘症」という病であるのかもしれなかった。

ただ、ほのかでささやかな光の調べを感じ取れるようになった――

逢坂りこの精神が角質を一枚脱ぎ捨て、成長して変わったのは、そのただ一点においてのみであった。

「あっちにもこっちにもほら、いっぱいいるわ」

母は年甲斐もなく興奮していた。そう短くない彼女の人生で、それほど多くの蛍を目の当たりにしたのははじめてであるらしかった。肉体の年長者が必ずしも精神の年長者であるという絶対性はなかった。

まるで示し合わせるように光る蛍の群れ……

そしてぶつからないように歩く人の行列……

スマートフォンには上手くうつせないこの蛍の乱舞を永久に心の中に留め続けることができるのなら……

逢坂りこはそれだけで、重い荷物を背負って生き続けるに足る意味や価値が、少なくともこの地球上には、いくらかあるような気がした。

「でもまたいつか、きっと忘れちゃうね」

「ええ?」

待ち合わせの辰野病院前の交差点まで歩く道すがら、前触れのないその言葉に母は耳を疑った。

「ううん、何でも。いつまでああゆう幻想的な風景がこの国に残されていくのかな、って少し気になって」

「そうねえ、誰かがそういう地道な努力を継続してくれるのを祈るしかないんじゃないかしら」

「うん……そうだね」

逢坂りこは母のときどき吐く臭い煙は嫌いだったけれど、しばしば吐く女言葉は好きだった。どちらが優れていてどちらが劣っていて、どちらが自由でどちらが窮屈であるかなどの差ではなく――

タカネツメクサがあってウルップソウがあってイワギキョウやミネズオウがあって、それらの蜜を吸うアサマシジミやクジャクチョウやミヤマシロチョウやタカネヒカゲがあるだけであって、言葉が死ぬことはすなわち何かが絶滅することと同義ではないかな、と以前、逢坂りこは母親に喋ったことがあった。母はそのとき、

「そんなことはないわ。人の使う言葉よりも世界はずっと広いもの」

なんてね、と冗談めかして慰めたけれど。

実際、「月へ帰ってしまう」のは『竹取物語』のかぐや姫一人きりだけではないのかもしれなかった。逢坂りこは、いつかあの素晴らしく美しい蛍たちもみんな、月へ帰ってしまうのではないか、と危惧していたのだ。それもかなり、深刻に。

だから確かめたかった。確証が欲しくて信州にやって来て、「月のもり」に泊まることにしたのだった。

 

「どうしてまた、こんな山奥で民宿をやろうと思ったんですか?」

カエルも鳴かない静かな夜だった。

山の湧き水を薪で沸かしたという風呂に母が浸かっている間、大きな窓に面したテーブルに対座して、山の湧き水をちびちびと飲みながら、ずっと気になっていたことを何の気なしに、逢坂りこは女主人に尋ねた。

「……息子がね、あまりに喘息がひどくて、東京から旦那と家族三人で引越してきたのがきっかけです」

女主人はノートを開いて、何かをメモ書きしていた。

「なるほど」よくある話だ、と逢坂りこは思った。

「それでもはじめは、伊那市のまだ開けた場所に住んでいましてね……当時小学生の息子はアレルギーだしからだも弱いから、せっかく田舎に引越してきたのに、よくいじめられて、友達もできなかったみたいで……」

「それはお気の毒……」

「ええ、それで息子が中学に入るのを機に、息子のからだのためにも、もともと夢だった農家民宿をやろうと、あちこち探し回って、たまたまここが――」女主人は振り返るように薄闇の窓の外を見て、告げた。

「金色に光って見えたんですね」

「へえ」

少し興味が増してきた逢坂りこは、仔細に尋ねた。

「それは、感覚的にそう感じたという意味ですか? それとも、実際にそういう光が目に見えて……?」

「……後日妹も連れて来てみたら、『お姉ちゃん、本当に金色に光ってるよ、ここに決めなよ』と言ってくれて、まあ……」

自分だけの独善的な感覚ではないということを説明した上で女主人は、

「それから十年、旦那とは別れ、息子はインドネシアの大学に留学し、それでもまだここで農家民宿を続けてこられていますから……」

運命の適正を具体的に述べた。

湧き水をゆっくりと腸に流し込む間を置いてから、逢坂りこはすべてを心得たように、こくと頷いた。

太平洋戦争中、あらゆる物の貧しい時代の助産婦のカゲが女主人と重なって見えた。生誕を手助けしていた女性が、今度はいったい何を手助けしようと念じて生まれ変わってきたのか――

それはまっすぐな遡上の夢の続きだった。

こういうひたむきな道も素敵だなと、回り道の好きな少女は思った。すると、風呂の戸の開く無粋な音がして、借りた浴衣を身にまとった母が濡れた髪を拭きながら現れた。

「お疲れ様でした」

「さ、りこ。気持ちいいわよ。あなたも入りなさい」

「うん」逢坂りこは席を立った。

「どうぞごゆっくり」

歯ブラシと浴衣とバスタオルを手に、洗面所へ行く。綿のシャツを上に引っ張り、紺のジーンズを下へ落とす。質素な白い下着を外すと、逢坂りこは樹齢三百年のヒノキの中に入り浸った。

なめらかな左腕を右手で撫で、きめの細かい右腕を左手で撫でた。

「いい土だ」と、我ながらに思った。

最低でもあと十年はいろいろな種を健やかに稔らせられる自信――そのときそれが、確信へと変わった。耕し方は知っている。焦る必要はない。

しかし与えられたものよりもさらに貴重で豊穣な結果を掴み取りたいから、逢坂りこは「学ぼう」と思った。

高校を卒業したら、田舎の大学へ行って、もっと詳細な農業を学ぼう――

精神の幼い両親のもとをしばらく離れる必要もあった。でなければ彼らは、樹齢三百年の木のありがたみも分からず、あっけなく伐り倒して著しく価値を下げて売り払ってしまうだろう。造物主から与えられた土地を管理するのは、自分自身しかいなかった。

十中八九の磨滅の中で、その一点だけは貫き通そうという覚悟――

それが文学やヨガをひっくるめて収斂をはじめた。ゆっくりと。ゆっくりと。

逢坂りこは「土」のありがたみをひしひしと感じながら、手で撫でるように全身をくまなく洗った。もっとも古くいちばん表面の垢がさらさら落ちる。湯は清瀧のように胸の谷間を流れていった。

 

翌日曜日――

朝六時、どこからともなく懐かしい音楽が響いてきて、逢坂母娘はそれを目覚めの合図とした。服を着替え終え、朝食の用意ができるまで逢坂りこは棚に置かれてあった『男の隠れ家』なる雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。家庭菜園の特集とある小説家のインタビュー記事を一通り読み終えて、ひじきご飯とおから、揚げ高野豆腐と朝採り野菜のサラダに味噌汁を腹に入れた。

内臓が優しさで充たされてゆく。

それから代金を支払って、荷物を整えて、八時も過ぎた頃に、彼女たちは民宿「月のもり」を出発した。最寄りの「唯一川の上にある」という信濃川島駅まで送り届けられ、逢坂母娘は女主人とさよならをした。

「お世話になりました」

「ありがとうございました。またいつか」

再三の礼をして、女主人がふたたび車に乗り込もうとした寸前、

「あ、そうだ」

と、逢坂りこは忘れ物を思い立った。

「何か?」女主人は怪訝に顔を向ける。

「お名前、何でしたっけ?」

「へ……? ああ、市川直美と申します」

「ああ、なるほど。ありがとうございました」

女主人は不思議な少女の不思議さを甘んじて受け止めて、キーを回した。逢坂りことその母も階段をぐるりと回ってホームへ降り立ち、一つしかない「辰野行き乗車口」の目印付近で一時間に一本のワンマン列車を待った。

人は他に、老婆と少女の二人しかいなかった。

そしてやがて、定刻通りに川の上に列車がやって来た。辰野の駅で乗り換えて、気づいたら逢坂母娘は「駒ヶ根」の駅にいた。

「これからどこに行くの?」予定を知らされていない母は尋ねた。

「雲の上」

謎かけのように娘は答えた。

「へえ、面白そうね」母は謎を謎のままに楽しめる人だった。

「うん、日本一の高低差があるロープウェイに乗るから。きっと面白いよ」

ここまでの計画はすべて順調だった。羅針盤も確認できた。これからの予定も順風満帆に進んでいくものと思われた。雲の上に待っているのはもはや、色とりどりの広大なお花畑だけだった。

「ああ、今日はロープウェイ運休してまして、このバスは手前の菅の台までしか行かないんですよ」

「え……運休?」

「そうなんですよ、たまたま。今週いっぱい、修理中らしいです。で、乗っていかれますか?」

「あ、いえ、結構です……」

そしてこれまた一時間に一本の路線バスは、尻込みする逢坂母娘を置いて乗客の一人もなく発っていった。計画はいともたやすく頓挫した。

「どうしようか? こんなところで」

母は明らかに田舎をさげすみながら、紙巻たばこに火をつけた。どうして愛する娘の前で、彼女は平然と臭い煙を吐くのだろう。逢坂りこはそれまで幾度、その紫煙にしかめ面をしたことだろう。たとえば本当にそれがきれいな紫色に見えたのだとしたら、多少の臭いも一生涯、耐え続けることができるのだろうか。いや――視覚よりも嗅覚のほうが画数が多い。そして到底、紫には見えない。

「山の麓まで、歩いていく」

「ええ?」

「それで、温泉に入る」

駅から日帰り天然温泉施設までは、四、五キロメートルくらいある。駅構内で手に入れた表「市街・竜東エリアMAP」に裏「駒ヶ根高原散策MAP」の色紙を見て知ったのだ。母は「バスを待つかタクシーで行くか」を主張したが、娘はかたくなに歩いていくことを選択した。

「これは、私の旅行だから」と。

いったい何が娘をそこまで駆り立てるのか分からぬまま、渋々と母はそれに付き従った。

総合文化センターを右に曲がり、明治亭本店を通り過ぎ、中央アルプス通りをひたすらにまっすぐ歩く。時折振り返り、母の歩みを気にしながら。途中、二軒の土産物屋に立ち寄り、信州そばと野沢菜漬けを購入した。

バスに乗って楽にいけば通り過ぎてしまっていたものだった。いや、そんなありきたりな土産物は他にいくらでも買えるのだろうし、日本全国どこにでも似たような風景があるのかもしれないけれど。ロープウェイで雲の上に昇るよりもずっとつまらなく、「北極周辺からやって来た寒冷植物の末裔たち」を拝むよりもとてつもなくくだらない旅路なのかもしれないけれど――

そうやって歩き疲れてから入る「早太郎温泉」のアルカリ性単純泉のいやしを堪能することはきっと、できはしなかっただろう。

 

「ああ……ごくらく」

 

露天風呂から中央アルプスの雄姿は眺められない。

その無念さを機に、「アルピニズム」にのめり込むことも、ましてやそば打ち職人を志すなんてこともない。ただ今回、こうして訪れた信州の光を己が目で存分に見て、湧き出る温泉に己がからだを浸し、汗と疲れを落とし、そうすることで願わくば、母がほんの少しでも美しさを取り戻してくれたのなら――

申し分はなかった。

温泉上がりに施設内で黒酢ドリンクを飲み、明治亭(中央アルプス登山口店)でサケとイクラの清流丼とざるそばを食べ、天然水をペットボトルに汲んでから、今度は母の望み通り路線バスに乗って帰った。ロープウェイが運休中のバスは、二人だけの貸切状態だった。

「ねえ、りこ?」

「うん?」

「何かしら収穫はあった?」

「うん、あった」

「そう。なら、よかったわ」

もはやそこに、名ばかりの「大人たち」に振り回されるかつての逢坂りこはいなかった。

思えば十二歳の頃から六年間、両親の思考や態度にひそかに疑問を抱き続け、そしてその答えを私的に探求し続けたのが功を奏したのかもしれなかった。それがようやく、「本来の逢坂りこ」としての一つの実を結んだのである。

その結実をもとに、彼女はこれから、たとえば資本を集め、温泉施設をつくり、それを経営・維持、あるいは発展させていかなければならない。恩を受け、恩を返す。息を吸い、息を吐く。その永劫にも思えるような繰り返し――

反吐が出る? 意味がない?

いや、きっと、

違う。

 

『先生、やっと見つけました。自分なりに、やわらかくなる方法』

『へえ、興味深いですね。よければ僕にも聞かせてください』

東京へ戻る高速バスの車中で、逢坂りこが米村先生に宛てたメッセージは、底抜けに単純な提言だった。

『テマヒマかけることです』

『なるほど。深いですね』

もう、窓の外は暗かった。

自然は消え、人工のライトが増えてきたかのように見えた。

けれど深いところでは、人間も大自然の一部であった。すべてはどこかで、たとえ一部分だけだったとしても、すでに繋がり合っていた。触れ合っていた。

強く触れ合いたくて、その想いが剛情なあまりに、ときにぶつかり合っていただけだった。隣の席には面倒臭い母親が眠っていて、この国にはうっとうしいほどの恵みが何万年も昔から存在していた。

それなのに――

『その深さをこれから一生かけて、確かめていこうかと考えています』

『はい。逢坂さんの探究が成功することを、先生は祈っています』

トウダイ、もとくらし。

マリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレスト山の頂点の高さよりも深いといわれている。むろん生身の人間がそこに到達することはできないけれど、クラゲや白いヒラメみたいな生物なら、どうやらそこでも生息できるようだ。

『ありがとうございます。信じていてください』

最期に逢坂りこが掴み取る「土」の色を、彼女はまだ知らなかった。それはさも、当たり前のように。